安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

本願を聞いたのと助かるのは同じこと(ZhengQingさんのコメント)

ZhengQingさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

(略)
「今救われたいという思い」は他力の信心のことなのだろうか。今ここがわかりません。(ZhengQingさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100205/1265378979#c1265625890

今救われたいという思いは、他力の信心ではありません。
他力の信心は、ただ今救うの弥陀の仰せを聞いたことです。
「今救われたいという思い」は、阿弥陀仏の願力によって起こされた聞法心です。

(略)
「往生はまかせよ弥陀をたのめ、必ず往生させる」と聞いて往生をまかせ弥陀をたのむ心が起きた時に救われる、ということでしょうか。(ZhengQingさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100205/1265378979#c1265636225

弥陀をたのむ心が起きた時に救われると聞くと、たのむ心が起きた後に救われると、私には読めます。ZhengQingさんがそういう意味で書かれたのではないかも知れませんが、「弥陀をたのむ心が起きた後に救われる」のではなくて、救われると、弥陀をたのむ心が起きるのは同時です。「弥陀をたのむ心」と「救われる」は同じことだからです。
同様の表現を御文章から引用します。

その他力の信心のすがたといふはいかなることぞといへば、なにのやうもなく、ただひとすぢに阿弥陀如来を一心一向にたのみたてまつりて、たすけたまへとおもふこころの一念おこるとき、かならず弥陀如来の摂取の光明を放ちて、その身の娑婆にあらんほどは、この光明のなかに摂めおきましますなり。これすなはちわれらが往生の定まりたるすがたなり。(御文章5帖目22通・当流勧化

何のようもなく、阿弥陀如来を一心にたのむ一念に、阿弥陀仏が摂取の光明を放っておさめ取って下さるのです。
本願を聞いたのも、弥陀をたのむ心も、救われるも同じ事です。
阿弥陀仏の本願を聞いて、ただ今救われて下さい。