安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

光明について(Kさんのコメントより)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

蓮如上人が御文章2帖目13通・御袖に、
「光明を放ちて」「光明の中にその人を摂め入れて」「光明の縁に値いたてまつらずば」「光明の縁に催されて」
と言われていますが、この「光明」とはどのようなものかよく分かりません。
詳しく教えていただけないでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100409/1270762502#c1270909785

光明とは、阿弥陀仏の智慧の働きをいわれたものです。
どんなものかと聞かれて、こんなものですという物体があるわけではありません。ものではなく、阿弥陀如来のお働きという説明になります。

つぎに当流の安心のおもむきをくはしくしらんとおもはんひとは、あながちに智慧・才学もいらず、男女・貴賤もいらず、ただわが身は罪ふかきあさましきものなりとおもひとりて、かかる機までもたすけたまへるほとけは阿弥陀如来ばかりなりとしりて、なにのやうもなく、ひとすぢにこの阿弥陀ほとけの御袖にひしとすがりまゐらするおもひをなして、後生をたすけたまへとたのみまうせば、この阿弥陀如来はふかくよろこびましまして、その御身より八万四千のおほきなる光明を放ちて、その光明のなかにそのひとを摂め入れておきたまふべし。
さればこのこころを『経』(観経)には、まさに「光明遍照十方世界 念仏衆生摂取不捨」とは説かれたりとこころうべし。さてはわが身のほとけにならんずることは、なにのわづらひもなし。あら、殊勝の超世の本願や、ありがたの弥陀如来の光明や。この光明の縁にあひたてまつらずは、無始よりこのかたの無明業障のおそろしき病のなほるといふことは、さらにもつてあるべからざるものなり。
しかるにこの光明の縁にもよほされて、宿善の機ありて他力の信心といふことをばいますでにえたり。これしかしながら弥陀如来の御方よりさづけましましたる信心とはやがてあらはにしられたり。かるがゆゑに、行者のおこすところの信心にあらず、弥陀如来他力の大信心といふことは、いまこそあきらかにしられたり。(御文章2帖目13通・御袖より)

「光明を放ちて」とか「光明の中にその人を摂め入れて」と聞くと、絵像の阿弥陀如来から光明が放たれている絵を想像されて、あの光明は一体何だろうか?と思われてのお尋ねなのかと思いました。

ここで言われる光明とは、阿弥陀如来のお働きであり、阿弥陀如来とまた別のものではありません。

この如来は光明なり、光明は智慧なり、智慧はひかりのかたちなり、智慧またかたちなければ不可思議光仏と申すなり。(一念多念証文)

と言われているように、阿弥陀如来のことを光明といわれています。私を助けようと働かれる阿弥陀如来の智慧の働きが、光明であり、そのお働きそのものが阿弥陀如来なのです。
「光明の縁に値いたてまつらずば」「光明の縁に催されて」についても、阿弥陀如来の私を助けようというお働きによらねばということです。

この光明、阿弥陀如来のお働きは、私がどこにいても、どれほどの煩悩に覆われていてもそれも障りとならず救って下さいますので、尽十方無碍光如来といわれています。

この如来、十方微塵世界にみちみちたまへるがゆゑに、無辺光仏と申す。しかれば、世親菩薩(天親)は尽十方無碍光如来となづけたてまつりたまへり。(一念多念証文)

どんなところにいても阿弥陀如来が充ち満ちておられる。光明が充ち満ちておられる。どちらで言っても同じ事です。天親菩薩が尽十方無碍光如来と言われる通りです。

光明と言っても、阿弥陀如来と別にあるものではありません。光明とは何ですかといわれれば、阿弥陀如来の働きであり、阿弥陀如来そのものです。