安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

教行信証総序のお言葉について教えて下さい。(頂いた質問)

教行信証総序のお言葉について教えて下さい(頂いた質問)

教行信証総序といっても、ブログで書くには長文なので、今回は、最初の部分について書きます。親鸞会の話でも、以前はよくでてきた部分です。

ひそかにおもんみれば*1、難思の弘誓*2は難度海*3を度する大船、無碍の光明は無明の闇を破する恵日*4なり。(教行信証総序・浄土真宗聖典(註釈版)P131

「ひそかにおもんみれば」は、註釈に「仏意に対して、へりくだる意をあらわす」とあります。仏様の心は菩薩でも到底わからないものなので、まして凡夫がわかるものではありません。その仏意を私なりに考えてみると、ということです。

「難思の弘誓」は阿弥陀仏の本願です。
「難度海」は渡ることが難しい迷いの海のことです。これはこの人間の一生に限らず、限りなく生死をくり返して、そこから離れられないことを喩えられたものです。
阿弥陀仏の本願は、法蔵菩薩が自らの力では生死を離れることができない私をあわれに思われ、生死を離れさせ浄土に往生し仏にすると誓い願われたものです。
「難度海を度する大船」は、生死を離れ、浄土へ渡す大きな船ということです。

「無碍の光明」は、阿弥陀仏の本願を因とすると、本願が成就した結果私に働いて下さる阿弥陀仏のお働きです。

すなはち阿弥陀仏なり。この如来は光明なり、光明は智慧なり(一念多念証文・浄土真宗聖典(註釈版)P691

法蔵菩薩が本願を建てられて、その本願が成就して阿弥陀仏となられました。阿弥陀仏はどんな仏かと言えば「この如来は光明なり。光明は智慧なり」といわれるように、私を救う働きそのものです。

「無明の闇を破する慧日」は、無明の闇を破る智慧の働きを太陽に喩えられたものです。
「無明の闇」は、「無明」は本来真理が分からない心をいいます。無明と言えば、真如に反する愚痴(痴無明)と、本願を疑う心(疑無明)の二つの意味があります。ここでは、本願を疑う心を阿弥陀仏の光明は破って下さり、真実信心の身に救って下さることを言われています。

難思の弘誓の「難」は、「難」度海に対し、無碍の光明の「無」は無明の闇に対した言葉遣いと先哲は言われています。*5
また、「難思弘誓」は、阿弥陀仏の因となった誓いのことであり、「無碍の光明」は、法蔵菩薩の誓いの結果あらわれた仏のことです。それぞれ、「難思弘誓」は、「難度海」という衆生の生死の果に対して建てられ、「無碍の光明」は、「無明の闇」という衆生の苦しみの因を破って下さいます。
本願の因果と、衆生の苦しみの因果がそれぞれ対応する形で書かれているのが、総序の最初の部分です。

阿弥陀仏は、自らの力で生死を離れることが出来ない私のために本願を建てられ、その結果阿弥陀仏となられました。そして、私の無明の闇を破り生死を離れ、往生浄土させて下さる光明となって働き続けておられる仏様であると教えられています。

*1:仏意に対して、へりくだる意をあらわす

*2:思いはかることのできない広大な誓願

*3:渡ることが難しい迷いの海

*4:智恵(智慧)の輝きを太陽に喩えた語

*5:僧鎔:本典一茀録