安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自力とは何か(papaさんのコメント)

意識を空から見た氷山の一角とすると、救われるとは氷山全体が認識できるようになる(私全体がわかる)のかと思っておりましたが、
そうではないようですね。
自己がはっきり認識できなくても救われるという理解でよろしいでしょうか?
また意識=自力ではないとのことですが、捨てようとする自力は意識に出たものではないでしょうか?(papaさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090630/1246347255#c1246351332

回答します。
おそらくpapaさんの質問の趣旨は、「善のできない自分が知らされたときに救われるのでしょうか?」という質問とほぼ同じ内容だと思います。
阿弥陀仏に救われると知らされる姿を、機の深信ともいいます。
しかし、機の深信が立ったら救われると言うことでは有りません。

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

また、阿弥陀仏に救われた知らされるというのは、上記のお言葉に表された「出離の縁有ること無し」という姿であって、それ以外に自己認識の領域が拡大すると言うことでは有りません。
意識以外のもの、心理学的にいわれるような潜在意識が「自己」の領域拡大により、潜在意識が顕在化するということではありません。
阿弥陀仏に救われても、煩悩具足の凡夫は変わらないというのはそういうことです。
また、意識というのが唯識でいうところの意識を指して言われるのであれば、真宗学と唯識は領域がそもそも違うので真宗で言われる言葉(自力)が、唯識ではどれに当てはまるかと言うことは信仰を求める上ではあまり関係のないことです。

また、意識=自力ではないといいましたのは、「意識=自力」としますと、私たちが認識している、思うことすべてが自力ということになります。
「自力の心を振り捨てて」といわれる、自力は、私たちがいろいろと思うことの中でいいますと、ただ今の阿弥陀仏の救いに向かったときに、自分の三業をあてたよりにする心であります。それ以外は自力とはいいません。
そういう意味で、意識=自力ではないと書きました。

自力の心は「心」です。また、「自分の中にある心」です。決して、辞書の中にあるものではありません。
本の中に書いてある虎の話を読んで、「こういうのを怖いというのだろう」と思うのと、実際に虎にあって「怖い」と感じるのは違います。
また別の例で言いますと、恋愛小説(映画・漫画)をいくらよんでも、人を好きになった人でないとその感情(心)は分からないのと同じです。
心理学的、脳科学的考察をいくら積み重ねても、愛情というものは感ずるものであって、解析するものではありません。解析しても、感じなければないのと同じだからです。

同様のことは、自力の心も似たようなところがあります。ただ今弥陀に救われようと、実際向かわない人には、自力と言うのはお聖教を百回読んでも感じることはないでしょう。

自力の心とは理解して、捨てるのではなく、感じて捨てるものです。
自力が意識にでるというのは、どう思われていることかはわかりませんが、認識すると言うことから言えば意識に登るものです。