安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

救われたらわかるのは二種深信(なまえさんのコメント)

なまえさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

救われたら分かるの「わかる」は、「疑心有ること無し」がわかるのです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090620/1245495134

これだと救われたら何がわかるのか、よくわからないのですが。
宮田さんはどうのようなことが、救われてわかったのでしょうか。
よろしければ教えてください。(なまえさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090620/1245495134#c1245498831

回答します。
救われて分かることは、いわゆる二種深信の世界です。

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

二には決定して、「彼の阿弥陀仏四十八願をもって衆生を摂受したまうこと、疑無く慮無く彼の願力に乗ずれば、定んで往生を得」と、深信す。(法の深信)

どちらも「深信す」ですから「疑心有ること無し」です。
救われる前は、機にも、法にも疑いがあります。

「そのまま救う」「阿弥陀仏の一人ばたらき」と聞いても、「何かしなければならないのでは」「それでは何をすればいいのか?」というのは、阿弥陀仏の本願力に底を入れるわけですから、法に対する疑いです。

その法に対する疑いがあるから、同時に、「自分のやったこと、信じたこと、称えた念仏、聞いたことをあて力にして助かろう」という心が起きます。
これは、「あて力にして、なにかを足しにすれば助かる自分だ」という機に対する疑心が晴れないから起きてくるのです。

阿弥陀仏に救われれば、機と法ともに疑心あることなしですから、「出離の縁有ることなし」と知らされます。「出離の縁有ること無し」と見抜いて本願を建てられた阿弥陀仏の本願に救われますから、「定んで往生を得」と深信するのです。