安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

二種深信は「地獄一定と極楽一定の自己が知らされる。」「三世があることを知らされる。」「だからこそ言葉も絶えるような驚き、喜びが自然と湧き起こってくる。」(会員さんのコメントより)

会員さんからコメントを頂きました。また、会員さんのコメントについて複数の方からコメントを頂きました。有り難うございました。

会員さんのコメントから、以下引用します。

会員 2012/02/24 01:35
(略)
阿弥陀仏の智慧と慈悲の結集である六字の名号をいただくのですから、凡智では測れない知覚のようなものがあっても不思議ではないでしょう。(以下略)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120223/1329987757#c1330014949

会員さんは、信心決定したら「凡智では測れないない知覚のようなものがあっても不思議ではないでしょう」との意見でした。
また、その「「凡智では測れないない知覚のようなもの」は、さとりではないとも言われています。

会員 2012/02/24 09:32
信心いただいたなら、凡智から仏智になると、あたかも凡夫が覚者になるかのような意味に受け取られたのかもしれませんが、そのような意味ではありません。

現今の凡夫が悟りを開けるに値しないものであることは経典にある通りです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120223/1329987757#c1330043544

では、一体何を知覚するのかといわれているかといえば、「地獄一定と極楽一定の自己」とのことでした。

救われて知らされるのは、地獄一定と極楽一定の自己、これだけです。

しかし、この姿がまさしく自己の三世の姿なのです。

地獄一定とは即ち、悠久の過去から苦しんできた自己。

極楽一定とは即ち、未来永遠に救われた自己。

換言すれば、この二種深信がたつところに、三世があることを知らされ、だからこそ言葉も絶えるような驚き、喜びが自然と湧き起こってくるのです。

それらのことが分かるようになる、というのが凡夫のはからいだと言うなら、救われても特に変わる訳ではない、というのも凡夫のはからいなのではありませんか(会員さん 2012/02/24 09:32のコメント続き)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20120223/1329987757#c1330043544

会員さんの意見を整理すると、会員さんの言われる二種深信は、以下のようになります。

  • 地獄一定と極楽一定の自己が知らされる。
  • 三世があることを知らされる。
  • だからこそ言葉も絶えるような驚き、喜びが自然と湧き起こってくる。

これは、会員さんの体験上知らされたことなのか、御聖教の何かのご文を読まれてそのように主張されていることなのかが、まず不明です。それとも前回のエントリーのコメントということからすると、「2月19日のテレビ座談会で高森会長が話をしていたから」ということでしょうか?

仮に「高森会長の話」が、根拠ということでしたら、その「高森会長の話は、親鸞聖人の教えと違う」と私は主張しているので、「高森会長の話」は根拠になりません。
ついでにいえば、高森顕徹会長は「これが親鸞聖人の教えだ」「これが親鸞聖人の教えられた二種深信だ」と主張しているのですから、それが正しいかどうかを論じるときは、親鸞聖人の教えられたことを根拠にしなければなりません。「私は高森会長からこう聞いた」は根拠になりません。

次に、御聖教の根拠として示されていないことからすると、会員さんの体験でしょうか?仮に「地獄一定と極楽一定の自己が知らされ」「三世があることを知らされ」「言葉も絶えるような驚き、喜びが自然と湧き起こった」としても、親鸞聖人が「二種深信はそういうものだ」といわれていない以上、その体験がイコール二種深信だとはいえません。

最後に、何かの御聖教のご文を読まれてそのように主張されるのでしたら、そのご文を示して教えて頂きたいと思います。
今まで書いたことは、会員さんのコメントからの類推したことなので、もし違っていたらお詫びします。

前置きが長くなりましたが、会員さんの主張されている内容(「地獄一定と極楽一定の自己」「三世」が知らされる。「言葉も絶えるような驚き、喜びが自然と湧き起こってくる」)が、二種深信なのかについてエントリーを書きます。

二種深信については、親鸞聖人は教行信証信巻に善導大師のご文を引文されています。

〈二者深心〉。深心といふは、すなはちこれ深信の心なり。また二種あり。 一つには、決定して深く、自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。 二つには、決定して深く、かの阿弥陀仏の四十八願は衆生を摂受して、疑なく慮りなくかの願力に乗じて、さだめて往生を得と信ず。(教行信証信巻・浄土真宗聖典(註釈版)P218)

http://goo.gl/DqVem

最初に「深心といふは、すなはちこれ深信の心なり」と言われているのは、観無量寿経にある「深心」は、本願成就文の「聞其名号信心歓喜」のことであるといわれています。

次に「また二種あり」といわれるのは、他力の信心を解説上二つに開いて言われているのであって、「二種類ある」とか「二種類別なものがある」ということではありません。

その次に「機の深信」について言われています。会員さんのコメントからすると「自身は現にこれ罪悪生死の凡夫、曠劫よりこのかたつねに没し、つねに流転して、出離の縁あることなしと信ず。」とあるので、「曠劫よりこのかた」の自己が知らされると言われているようです。
しかし、それは違います。ここで言われているのは「出離の縁あることなし」であって、自分の力では生死を離れることが出来ないことを知らされるので有り、自力の心の廃ったことを言われたのです。

次に法の深信については、阿弥陀如来の法をそのまま知らされたことをいいます。そのまま知らされたとは「疑なく慮りなく」といわれたことで示されるように、そのまま本願力にうちまかせた心を言われています。本願のお言葉を言い換えれば「直ちに来たれ」を聞いて、そのまま本願の仰せにうちまかせた心が、法の深信です。「極楽一定の自己が知らされる」ということではありません。

まとめますと、二種深信といっても、一つの信心を言われたものですから、機の深信では自力無功が知らされて、自分の力を使ってなんとか往生しよう(または往生の足しにしよう)という心が廃り、本願の仰せに従うのです。それを、自力が廃ったままが本願の仰せに従ったということで、捨機託法ともいわれます。この「捨機」は、自分の力や行い(機)の功績を当てにする心が廃ったことであり、自力の心が廃ったことをいいます。
「託法」とは、法に乗託するということです。法に乗託ということは、阿弥陀仏の本願にうちまかせたということです。
この「機の深信」も、「法の深信」も阿弥陀仏の本願力を仰いで喜ぶ心をいわれたものです。そこで、「捨機即託法」ともいわれ、別々のものではありません。

二種深信についてのもう一つ「往生礼讃」のご文については、幹部会員歴数十年さんのコメントを参照して下さい。

機の深信からいうと、自分の力は何も往生の役には立たない、「自力無効」をいわれたもので、法の深信は、そんな私はただ願力の法によってのみ往生できるといわれたものです。それは、信の一念からずっと変わらないといわれたのが二種深信です。

以上のことから、会員さんの主張されている二種深信=「地獄一定と極楽一定の自己」「三世」が知らされる。「言葉も絶えるような驚き、喜びが自然と湧き起こってくる」は、間違いということになります。

もし、会員さんが「そんなことはない」といわれるのであれば、「高森会長の話」と「自己の体験」以外で、教えて頂きたいと思います。