安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏に救われるとは、正解がわかることではありません(Kさん、Tさん、Rudelさんのコメント)

前回のエントリーに複数コメントを頂き有り難うございました。コメントに対してまとめてエントリーします。

確かに自力の心があるから救われないのですが、自力が何かを実感として分かられた上で「自分はどうすればいいのだろうか」という質問なのか、それとも「自力は阿弥陀仏が破って下されると知っている」と知っているが、自分はどうすればいいのだろうかという質問なのかによくわかりませんでした。

後者です。自力が何かを実感として分かっているのとそうでないのと何か違うのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090623/1245754137#c1245764619

前者だと「どうすれば自力がすてられますか?」
後者だと「自力とはどんなものでしょうか?」
と、質問する内容が違ってきます。

違うように思うのは、自分の心に問いかけないからです。

自分の心に何と問いかけるのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090623/1245754137#c1245764619

ただ今阿弥陀仏に救われたい、どうして自分はただ今救われないのだろうかと、自分の心に問いかけるということです。
自力の心とは、なぜ自分は救われないのかという問いかけに対して出てくる心です。問いかけずに救われる方法論として自力の心を探してみても、「方法論」は自分の心の外に回答を求めることですから、見つかりません。

私が用意するものはありません。邪魔をする自力を捨てるのです。

やはり邪魔をする自力を私が捨てる必要があるということですね。
屁理屈のように思われてしまうかもしれませんが、自力を捨てるということを私が用意しなければならないということですよね。
「私が用意するものはありません。」だと「何もしなくていい」と同義にしかとれないのは私だけではないと思います。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090623/1245754137#c1245764619

では、何もしなくても助かるのですか?
自力を捨てなさい、ということは、何をしようとも考えないことですか?
「自力を捨てて」といわれても、具体的に何をどうするのか分かりません。(T さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090623/1245754137#c1245756905

これに関しては、ひろみさんもコメントされているとおりです。
「自力をすてるということ」という行為をしろといっているのではありません。それでは、私が用意したものが、往生の助けになるということになります。
「用意をする」というのは、不足分を足すという考えです。自分のやったこと、考えたことを足しにして助かるという本願ではありません。
「三業」(なにかをする、いう、考える)を、あて力にする心が自力であって、あて力の対象になっている三業そのものが自力の心ではないのです。

たとえば、「これだけ念仏を称えたから早く助かるだろう」という、場合は、「念仏を称える」という行為をあて力にして「早く助かるだろう」と思います。この「早く助かるだろう」と往生の足しにする心が自力の心で、念仏そのものが自力の心ではありません。
Tさんのコメントでいえば「何もしようとも考えなければ早く助かるだろう」となります。「何もしようとも考えない」という行為をあて力にして「早く助かるだろう」とするのが自力の心です。

具体的にいえば、用意するものがらではありません、何をもってきてもそれを往生の足しにする心(自力の心)を捨てるということです。

ただ、「自力を捨てよ」なのですよね。「私が用意するものはありません。」は、私が用意した何かの力によって助かるのではないという意味ですよね。
「何もしなくていいのか」と「何かする必要がある」の間を長い間揺れ動いてきているように思うのですが何も進展がないのです。ここで質問しても申し訳ありませんが変わっていません。
しかもおそらくこれはとても程度の低い問題なのではないでしょうか?(Kさんのコメント)

程度というものはありません。誰もが陥りやすいところだと思います。
「助かる方法論があり、それを知り実践して助かる」という前提に立つと「何もしなくていいのか」と「何かする必要がある」の間を動き続けると思います。
しかし、「助かる方法論があり、それを知り実践して助かる」のではありません。「助かる方法論=自力を捨てよ」ではありません。
「助かる方法論がある」という前提を捨てよというのが、自力の心を捨てよということです。

「自力の心がわからねば、捨てられない」のは事実です。しかし、「自力の心をどこかにあると探す」と見つかりません。
「どこかに自力がある」というのは、「自分は知らないから助からない」という考えであり、「知ったら助かる」という考えなのです。自分が知らない知識体系を理解し、発見したら助かるという考えは、いわば賢くなったら助かる。賢くないから助からないという考えです。

方法論として突き詰めると、Rudelさんのコメントのように

捨てようとする心も自力、それじゃ捨てようがないじゃないか、と考える心も自力、考えなくても(考えるのをやめようとしても)自力、「ただ今そのまま南無阿弥陀仏をうけとれ」を、自分の頭の中でひたすら解釈しようとしても自力、もう何が何だかわからなくなるばかりです。(Rudelさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090623/1245754137#c1245801134

何が何だかわからなくなるとおもいます。

考えることが悪いのではありません。が、「自力」という言葉にあまりにもとらわれてしまうと、出口がなくなってしまいます。自力がすたるかどうかは、体験することだからです。

末灯鈔に書かれているお言葉を紹介します。

故法然聖人は、「浄土宗の人は愚者になりて往生す」と候いしことを、確かに承り候いし上に、物も覚えぬあさましき人々の参りたるをご覧じては、「往生必定すべし」とて、笑ませたまいしを、見まいらせ候いき。文沙汰して、さがさがしき人の参りたるをば「往生はいかんがあらんずらん」と、確かに承りき。(末灯鈔8)

法然上人は「阿弥陀仏の本願は愚者になって往生する」といわれた。物も覚えられない人が参詣するのをご覧になっては「必ず往生するだろう」と笑っておられた。文字の解釈をいろいろする人がやってくるのを見て「往生できるだろうか」といわれたとのことです。
庄松同行のように、文字も読めないような人でも往生するのですが、「自力とはなにか?」と真剣に悩んだのではないと思います。
「なぜただ今助からないか」「自力がどうすればすたるかどうか」で悩んだのだと思います。

ただでいかれる身をもちながら おのが分別いろいろに
おのが分別さっぱりやめて 弥陀の思案にまかしゃんせ(お軽同行の歌)

と歌っています。おのが分別とはいろいろ考えることでありますが、ここでは自力の計らいです。考えること全般ではありません。
「おのが分別さっぱりやめて」阿弥陀仏の思案にまかせたといわれています。思案も全部阿弥陀仏がすでにされているものです。はからいをやめろとは、「思考停止せよ」でも「考えるのをやめよ」でもありません。
末灯鈔のお言葉でいえば、「愚者になれ」です。

本当は、ただ一向専念無量寿仏、雑行を捨てて一心一向に阿弥陀仏を信じよとそれがすべてなのではないでしょうか?
最近、諸行往生は悪いという人がありますが、「一向専念無量寿仏」は、大無量寿経の19願成就文、諸行往生にあります。
「何もしなくていい」という意味に取られ兼ねないことを言う必要は全くないと思うのです。どうなのでしょうか?(Kさんのコメント)

言われるとおり、

もろもろの雑行をなげすてて、一心に弥陀に帰命すれば(御文章5帖目10通・聖人一流の章)

と蓮如上人がいわれるように、雑行を棄てて弥陀をたのめと言葉で言えばそれだけです。
「何かしなければいけないのですか?」という問いに「何もしなくていい」というように取らかねない文章を書いたのは、私の力量不足と反省しております。

方法論を追い求めるのは、知識の問題になりがちです。それを捨てよというのは、言葉をかえれば「愚者になれ」ということです。知者にとっては、「愚」はある意味最も遠いところにあるかもしれません。知識の問題になると、「自分が助かりたい」という単純なことが抜けてしまいがちです。

ただ今阿弥陀仏にすくわれるということは必ずあります。ただ今弥陀に救われて下さい。
今回は、長文になり申し訳ございませんでした