安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自分はどうすればいいのかも自力(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏のお力に限りがないというのは、自力の心を捨てさせる(無明の闇を破る)力があるということだと思います。
救われないのは自力の心があるからでありそれは阿弥陀仏が破ってくださるものであり、自分はどうすればいいのだろうかと思っていましたが、救われないのは自力の心そのものとは別の、「南無阿弥陀仏を受け取らない」、「阿弥陀仏の仰せに従わない」ということのためであって、それは阿弥陀仏ではなく自分がしなければならないことなのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090619/1245401159#c1245501766

回答します。
確かに自力の心があるから救われないのですが、自力が何かを実感として分かられた上で「自分はどうすればいいのだろうか」という質問なのか、それとも「自力は阿弥陀仏が破って下されると知っている」と知っているが、自分はどうすればいいのだろうかという質問なのかよくわかりませんでした。

いづれにしろ「自分はどうすればいいのだろうか」というのが自力です。
自力の心は阿弥陀仏が破って下されると聞いても、その上で「自分はどうすればいいのだろう」と思うのが自力です。

また、「南無阿弥陀仏を受け取らない」「阿弥陀仏の仰せに従わない」のも自力です。自力と別のものではありません。言葉が違うだけで、ものがらは同じです。違うように思うのは、自分の心に問いかけないからです。

ただ、何もしないでただ待っておればよいという棚からぼた餅が降ってくる信心ではありません。信仰を求めるとは、自ら求めることです。
黙って座っていたら徹到する真実信心ならば極難信とはいわれません。

一代諸教の信よりも 弘願の信楽なおかたし
難中之難とときたまひ 無過之難とのべたまふ(浄土和讃)

聖道仏教で覚りを開くよりもむずかしいから、難中の難であり、これに過ぎたる難は無しといわれるのが、阿弥陀仏から賜る信心です。

阿弥陀仏がなされることは何で私がしなければならないことは何なのかということをはっきりさせたいです。
すべて阿弥陀仏がなされることであって私が用意すべきことは何もないように聞きますが、それが邪魔をして、今救われてくださいと言われてもどうしてよいか全くわかりません。(Kさんのコメント)

その「どうしてよいか全くわかりません」という自力の心を振り捨てよというのが、「自力を捨てて弥陀をたのめ」の教えです。
阿弥陀仏がされたことは、自分の力では生死を離れることができない私たちのために南無阿弥陀仏を完成されたことです。
現在阿弥陀仏がなされていることは、その南無阿弥陀仏を差し向けて下さることです。
私は、その邪魔をしているのです。阿弥陀仏がそのまま救うといわれて名号を差し向けて下さっているのに「何をしなければならないのですか」と邪魔をするのです。それが自力です。
私が用意するものはありません。邪魔をする自力を捨てるのです。
つかんだ自力を離さねば、他力に帰することはありません。

自力を捨てて、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。