安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

今助かりたいという気持ちは大事(momoさん)

momoさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

この人なら正しく導いてくれるのか、この人となら信心決定まで共に進めるのか、と心の中で知識や法友選びをしてしまいます。安心したい心でいっぱいです。
もういっそ仏法を忘れて生きて生きたいという考えも浮かぶ一方、またいつか後悔する時が来ると思えばで不安になります。
以前は仏法に出会えてありがたいと思っていましたが、(今でももちろんそういう気持ちはありますが)どうして自分は獲信しないといけないという価値観に囚われてるのか、常に宿題を背負ったようなしんどい気持ちになるなら、知らずに生きていく方がよかったのではないのかと思うこともあります。
救われもせずこのまま何年も過ぎるとしたら、ぞっとするような不安と焦りで絶望的な思いになります。
うまくいえませんが、以前は死ぬのが怖かったので後生の解決が目的だったのですが、今の気持ちとしては、今を何とかしてもらいたい、という気持ちが近いような気がします。今助かって早く安心したい、という気持ちです。他の悩みと混ざってそう思っているのかもしれませんが、とにかく安心したい、という心しかありません。(momoさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090618/1245326842

回答します。
不安や絶望の元にあるのは、「このままいっても自分は救われないのではないか」という心からだと思います。
問題は、なぜ「このままいってもすくわれないのではないか」という気持ちになっているかということです。
自分が理解している教えに対する疑問か、どこで聞法されているかは知りませんが、聞いている知識に対する疑問か、どちらにしても尊い疑問だとおもいます。
「この人なら導いてくれるだろうか」という疑問は、その人に直接自分の抱える疑問をぶつけるのが一番だと思います。知識や同行を選んだり、探すことは大事なことと思います。
実際問題として「自分が救われると思うか、思わないか、どちらにしろなぜそう思うか」という疑問が大事です。

獲信は、しなくてはならないのではありません。「獲信したいか、したくないか」です。しなくてはならないというのは、強制です。
一方「獲信したい」と思う心は、形はどうあれ、阿弥陀仏からおこされた尊い聞法心なのです。求めていくときには、「どうして求めているのだろう」と不思議に思うことも何度もあると思います。

しかし、救われるということが必ずあります。

穢を捨て浄を忻い、行に迷い信に惑い、心昏く識寡く、悪重く障多きもの、ことに如来(釈尊)の発遣を仰ぎ、かならず最勝の直道に帰して、もっぱらこの行に奉え、ただこの信を崇めよ。(教行信証総序)

この娑婆から浄土を願う人、自らの行に迷い、自力の信心に惑い、心くらく覚りもなく、悪重く障りが多いすべての人、お釈迦様のお勧めを仰ぎ、必ず弥陀の本願を信じなさい、ただ南無阿弥陀仏を奉りなさい、ただこの真実信心を崇めなさいと親鸞聖人は勧められています。

なぜ救われないと不安に思うかはコメント部分だけでは分かりませんでした。
「今助かりたい」という心は、理由はともかく本当だと思います。
ただ今助かるのが阿弥陀仏の本願ですから、ただ今助かって下さい。