安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

心が戸惑うのは、悪いことではありません(きらりさんのコメントより)

きらりさんのコメントに、コメントをしようと思いましたが、少し長くなりましたのでエントリーに変えます。

私も続けて見てしまうと、心が戸惑いそうなので、これで最後にします。(きらりさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090609/1244547585#c1245297516

「心が戸惑いそう」というのは、「心が戸惑うのが悪いこと」だということでしょうか?

親鸞聖人が京都にもどられた晩年、関東に派遣されていた長男の善鸞(慈信坊)が教えを曲げたことによって、関東の同行の信心が揺らいだことがありました。そのことを親鸞聖人は喜ばれています。

慈信坊が申すことによりて、人々の日頃の信のたじろきおうて在しまし候も、詮ずる所は人々の信心の真実ならぬ事のあらわれて候、よきことにて候。(御消息集)

「善鸞が言ったことで、人々の日頃の信心が戸惑い、動乱したのは、真実信心でないことがあきらかになったからだ、それがわかったのはかえってよかったことだ」と言われています。

読んで戸惑うのは、自力の信心だからです。
「このまま聞いていればいつかは信心決定できる」というのも自力の信心です。
「助かりたい」と本気で思えば、「このままで助かるのだろうか?」と自身の求道に疑問が起きるのは、むしろ健全なことです。
「このままで助かるのだろうか?」という疑問は、阿弥陀仏が起こされる聞法心の現れであって、「考えてはならないこと」ではありません。
凡夫に「助かるのだろうか?」という殊勝な心がでるのは、阿弥陀仏の働き以外にありません。

「見てはならない」の理由が、「これで大丈夫」と間違った信心に腰をかけるというのなら分かります。「心が戸惑う、動揺するから」というのならわかりません。
「心が戸惑うから」というのなら、それまで「戸惑っていなかった」「安心していた」ということになり、安心した求道とは、「このままいけばいつかは救われる」という安楽椅子です。

この安心問答も1年1ヶ月続けています。「これでいいのでしょうか?」という質問に「それでよい」と回答したことは一度もないと記憶しています。

「こうしていけばいつかは救われる」と、年金の積み立てのように思っておられるのなら、それこそ間違いです。これだけ積み立てれば大丈夫と安心している年金信心は、必ず破綻します。
また「どうせ今生は救われないのだから、何かの縁になれば」と聞法するのも間違いです。

「正しい教えを聞いていると思う」のは、自分の考えです。しかし、「正しい教えを聞いていけばそのうち助かる」と思うのは間違いです。
説かれる方が正しければ、100%助かると思うのは、知識帰命といわれるものです。親鸞聖人から直接聞かれた同行が、全員獲信したのではありません。

真実信心を求める道は、獲信するまで安心するところはありません。反対に、あきらめたり弱気になる所もありません。
必ず助ける法に向かい、一心一向に阿弥陀仏に向かうのです。

いつかはではなく、ただ今阿弥陀仏にすくわれることがあります。
ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。