安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

御恩報謝について、まず阿弥陀仏に救われる事が報謝(nowhereさんのコメント)

前回のエントリー*1に、nowhereさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

親鸞会では、「獲信とよい関係にある」として善の勧め、特に財施と法施を強力に勧めます。そういう考え方は自力を励むことになるから、浄土真宗の教えではない、とするならば、戦前までの寺に対して、門徒の方からの田地の寄進が一般的に為されていたという事実について、その教義的な根拠はどのようなものであったのでしょうか。(nowhereさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20100402/1270157103#c1270175567

教義的な根拠というのは、「獲信のために」しなさいというところはありません。
maryさんのコメントにもありましたが、報恩謝徳のためにすることです。親鸞会でいわれる「ご報謝(財施)」は、阿弥陀仏に救われた報恩謝徳という意味でいわれることはほとんどありません。

しかし、蓮如上人の御文章にたびたび「懇志」とあるのは、「御恩報謝の懇志」とか「御恩法の御志」と書かれるように、阿弥陀仏に救われた御恩報謝につかう言葉です。

そもそも、この御正忌のうちに参詣をいたし、こころざしをはこび、報恩謝徳をなさんとおもひて、聖人の御まへにまゐらんひとのなかにおいて、信心を獲得せしめたるひともあるべし、また不信心のともがらもあるべし。もつてのほかの大事なり。(御文章5帖目11通・御正忌

報恩講に参詣され、懇志を持ってこられ、親鸞聖人の御前に参詣される人の中で、信心を獲得された人も有り、信心獲得されていない人もある。もってのほかの大事であるといわれているのは、報恩謝徳とは、阿弥陀仏に救われた上での報恩謝徳だからです。

戦前、寺に対して田地を寄進された方があったというのも、全員がそうだったかは分かりませんが、阿弥陀仏に救われた御恩報謝の気持ちで出されたもので、「獲信と良い関係にあるから」出そうと思われた方はないはずです。
「懇志」とか「こころざし」といわれるものですから、まず最初にあるのは「報恩謝徳の心」です。教義的にこうだからやらねばならないということではありません。

報謝は救われた後ならば、救われていない人は何をしたらよいのかと思われる人もあります。救われていないといっても、阿弥陀仏や親鸞聖人から大変な御恩をうけていることには違いありません。そこで、未だ阿弥陀仏に救われていない人は、早く救われなさいと蓮如上人は教えられます。

日ごろの信心のとほり決定せざらん未安心のひとも、すみやかに本願真実の他力信心をとりて、わが身の今度の報土往生を決定せしめんこそ、まことに聖人報恩謝徳の懇志にあひかなふべけれ。また自身の極楽往生の一途も治定しをはりぬべき道理なり。これすなはち、まことに「自信教人信 難中転更難 大悲伝普化 真成報仏恩」(礼讃)といふ釈文のこころにも符合せるものなり。(御文章3帖目9通

いまだ信心決定していない人も、ただいま他力信心をとりて、自分自身が報土往生定まる身になることが、親鸞聖人への報恩謝徳の懇志にもかなうことになるのだといわれています。

その上で「大悲伝普化 真成報仏恩」(大悲を伝えて普く化す 真に仏恩報ずるに成る)といわれていますので、念仏を称えることも、人に伝えることも、人に伝える寺に寄進することも、また仏法を人に謗らせないように身を慎むのも報謝になります。