安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

仏法にあえた喜びが続かないという場合の理由(フーテンの虎さんのコメントより)

フーテンの虎さん、コメントありがとうございました。
(全文はこちら http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20081209/1228813960#c1228831255

事実、最初はお聞きすればするほど、胸の中にスーとはいったものです。しかし、ある日を境に胸にはいっていかなくなりました。

胸の中にスーッと入っていったというのは、「今までそうじゃないかな、と漠然と思っていたことを、言語化された形で話で聞いてきたので、とてもよく納得できた」ということだと思います。

仏法で教えられる、諸行無常(すべてのものはいつまでも続かない)や、罪悪の話、因果の道理などは、それまで「仏法」として聞いていなくても「なんとなくそんなものだろう」と思っていたことが、「教え」という言葉になって、現れるので、よくわかるといわれる人があります。

無常とか、全然考えたこともなかったけど、仏法を聞くようになって初めてそういうものがあるということを知らされたと言う人はどちらかというと少数派なのではないかと思います。
「前からそう考えていました」とか「やっぱりそうだったんですね」「わかります」というのは、「今まで自分が考えていた通りだった」という「わかる」であり「スーッと入る」なのです。

しかし、仏法の聞き始めの「感動」というのは、多くの人はそういうことろが多いのではないかと思います。しかし、その感動も「感情」ですから、続きません。
いわば、今までの自己の経験上の範囲内、または延長にすぎません。

そこで、信仰や教義の理解がとまってしまうと、「わからなくなる」という状態になります。

そのうち、訳がわからなくなり、考えるのをやめたのです。

信心決定というのは、仏法に出会う前に考えていたような「すごい幸福」とは、まるで違うものだと思われたほうがいいと思います。
「何か私を認めてくれるもの」
「何か私を満たしてくれるもの」
多くの人は、そういう心の渇きを、いろいろなものに求めます。それが、趣味であったり、現世利益の宗教であったりします。

しかし、阿弥陀仏の本願はそういった、多くの人が求める心の乾きや、趣味である程度穴埋めできるものを満たすものではありません。

なぜ、遠くなっていくように感じるのかというと、自分は除外されていると思うからです。
本当に阿弥陀様は私をみていてくださるのか。信じきれないからです。私の機にあわないというか、そんな気がしてならないのです。

この疑問は、おそらく、「信心決定に近づいている感じがしない」というところからくるのだと思います。
なぜ感じられないかというと、心が変わらないからか、教えはある程度わかって、新しく知らされることがないというところからくるのではないかと思います。

一 ひとつことを聞て、いつも珍しく初めたるやうに信の上にはあるべきなり。ただ珍しきことを聞きたく思うなり。一つことを、幾度聴聞申すとも、珍しく、はじめたるやうにあるべきなり。(蓮如上人 御一代記聞書)

これは、同じことを聞きなさいと言われている、蓮如上人のお言葉です。
しかし、この同じことを聞けというのは、同じ法を聞けということであり、「またあの話かと思っても我慢して聞け」ということではありません。

「我慢して聞いてたら、やがて獲られる信心」というのなら、「我慢した人が救われる」ということになってしまいます。

同じことを聞けというのは、弥陀の本願を聞けということであり、「ただ今救われる本願」を「ただ今救う本願であった」と救われるまで聞けということなのです。

信心決定は、必ずできます。阿弥陀仏の願力によりますので。