安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

ただ今弥陀に救われる、そのための聞法(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

今日こそ信心決定しよう、と思って聞くと、実は「別に自分は助けてもらう必要はない。何にも困っていない。」という心があります。
頭(知識)では「今日が最後かも知れない。今この場で名号を頂かなければ」「本当の安心も満足もないのだから、流転輪廻の打ち止めをさせていただくのは今しかないんだ。」と力んでみても、大切な聞法心、救われたい心が減ってしまったように感じます。
合点するとは、聴聞して「その通りその通り」と思えることならば、自分は全然だめです。
いつになったら「その通りその通り」と聞けるようになるのでしょうか・・?
今死んだら、と考えると「絶対死にたくない。死ぬのが恐ろしい。この恐怖を助けてほしい。」という気持はあります。
どういう気持で聴聞すればいいのでしょうか?
(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090308/1236466473#c1236509518

結論から言いますと、「ただ今救われようという心」で聴聞することです。
聴聞の目的は、「真剣に聞法する」ことではなく、「ただ今弥陀に救われる」ことだからです。
「聞法心、救われたい心が減ってしまったように感じます」『いつになったら「その通りその通り」と聞けるようになるのでしょうか?』という言葉からは、「強い聞法心を起こす」「その通りその通りと聞く」ことが、大事になってしまっているように感じます。
死にたくない気持ちを解決したいのということであれば、阿弥陀仏に救われてもその心は変わりません。

強ちに病患をよろこぶ心更に以て起らず、浅ましき身なり、慚ずべし、悲しむべきもの歟。(御文章4帖目13通・秋去り春去り)

病気になったら死ぬのが近くなることを感じる、だから病気を喜ぶ心は全く起きない、浄土に往ける身でありながら、浅ましい身である、恥ずかしいことであり、悲しむべき事だと、蓮如上人は言われています。
では、何のために仏法を聞くのかというと、

かかる世の中の風情なれば、いかにも一日も片時も急ぎて信心決定して、今度の往生極楽を一定して、その後人間の有様にまかせて、世を過すべきこと肝要なりと皆々心得べし。(同上)

いつ死がやってくるか分からない世の中であるから、一日でも、少しでも急いで信心決定して、この度は弥陀の浄土に往生することが定まる身となって、その後はその人その人の能力や環境に応じて、世を過ごすことが大事なのだといわれています。
まず、信心決定して、往生極楽を一定することが大事なのです。

元々救われたい心がないのが私の姿です。とはいえ、せっかく生まれがたい人間に生まれ、聞き難い仏法を聞き、往生極楽を目の前にしているのですから、聞法心の有無は関係なく、信心決定を一日でも早くすることが大事です。

その上で、「どうすれば信心決定できるのか」とただ今の弥陀の救いに向いた人が、阿弥陀仏の救いを妨げる自力の心に気がつくこと合点と言います。
合点したのが信心ではありませんが、合点しないと求道になりません。

なんでもかんでも「そうだそうだ」と頷いで、いつの間にか救われるのでもなければ、いつのまにか驚きが立つのではありません。疑問が起きると言うことはそれだけ理解をしたということなのですから、大事なことです。

どんな気持ちで聴聞するかではなく、現在ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。