maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
上記「真実信心を求める道は・・・反対に、あきらめたり弱気になる所もありません。」とありますが、あきらめることはないと思いますが、(十方衆生が相手の本願ではあるけれど、ひょっとしたら自分は助けていただけないまま臨終までいってしまうかも・・。)と弱気になることはあると思います。
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090618/1245326842#c1245389834
「弱気になる所もありません」とは、どうしてそういえるのでしょうか?教えてください。(maryさんのコメント)
回答します。
「弱気になるところもありません」と書きましたのは、阿弥陀仏の本願は十方衆生を相手の本願だからという方面から書きました。
願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず(正像末和讃)
どんな人でも、自分が助からないと思っている人でも助ける力が南無阿弥陀仏にあります。
真実信心を求めてくと、阿弥陀仏の大慈悲からいえば、どんな悪人でも救われると聞き、「それなら自分も助かることがあるに違いない」と思います。しかし、一方、なかなか真実信心が獲られないと「なかなか難しい。やはりあの人のような聞法心の強い人でないと助からないのではないだろうか」と不安になります。
不安も度を超えると「阿弥陀仏はなぜ私を助けてくれないのか!」と阿弥陀仏に対して腹を立てる心まで起きてきます。
しかし、不安になるのも、腹を立てるのも、全部私の都合でいっているのです。阿弥陀仏が名号を完成されたのも、私たちに南無阿弥陀仏を与えようとされているのも、すべて阿弥陀仏のお計らいです。私の計らいではありません。
ですから、「私が助かると思う」から助かるのでもなく、「私が助からないと思う」から助からないのではありません。
善人になったから助かるでもなく、悪人と知らされないから助からないのでもありません。
自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたる間、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。(歎異抄3章・悪人正機)
自力で善をして助かろうとする人は、阿弥陀仏をたのむこころが欠けているから阿弥陀仏の本願ではない。しかし、自力の心をふりすてて、他力をたのめば、阿弥陀仏の浄土に往生出来るといわれています。
助かる法は阿弥陀仏の一人ばたらきですが、「自力の心」で阿弥陀仏をたのむこころがないから救われないのです。
「自分は助からない」と思って他力をたのむこころがかけているのです。
「自分は助からない」というのは、私の計らいです。弱気になっても、諦める必要はありません。阿弥陀仏は十劫の昔からあきらめずに働いておられるのですから、必ず救われます。
必ず救うという弥陀の本願を信じるか信じないかです。
ただ今弥陀に救われて下さい。