安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

追記(花さんへ)

上記のエントリーでは、回答にならないと、残念さんからコメントを頂きました。申し訳ございませんでした。
改めて追記します。

花さんのコメントを読みますと、「仏法のためにつかっている時間が少ないから」とか「こんな状態の時、楽に救われるはずがない」と書かれています。

これは、「何かしなければ助からない」「助かるにはこちらで何かする必要がある」と思う心です。

芥川龍之介の小説「蜘蛛の糸」にでてくる血の池地獄の罪人は、生前にクモの命を助けたことが縁となって、天井からお釈迦様がクモの糸を垂らして助けようとされる結果になって現れました。

これはあくまで小説の話ですが、このように「苦労した」「時間を費やした」「泣き泣き求めた」ことが、助かる縁になると思われているのだと思います。「阿弥陀仏は、大慈悲をもたれた仏様だから、これだけ苦労をしたことに対して、何もされないはずはない。」
「それに報いて南無阿弥陀仏を与えて下されるのではないだろうか。」
こういう心が自力です。

私たちが、思ったこと、やったこと、行ったことは、私たちの行為です。私たちの行為は、どれだけ「善く」しても、助かる「縁」にはならないのです。

一には決定して、「自身は、現にこれ罪悪生死の凡夫、昿劫より已来常に没し常に流転して、出離の縁有る事無し」と、深信す。(機の深信)

果てしのない過去から、生死流転を重ねて、そこから出離の縁があることのない自分であるというのが、仏様からみた私たちの姿です。

行が足りないからでも、楽をしているからでもありません。
南無阿弥陀仏を受け取らないからなのです。善の多少ではなく、自力がなくならないからです。
別の言葉で言えば、「なにかしなければ」と阿弥陀仏の本願を疑っているからです。信じていないからです。

「自力を捨てて弥陀をたのめ」とは「信じて弥陀をたのめ」ということです。「善をしてたのめ」でも「驚いてたのめ」でも「泣いてたのめ」でもありません。

「○○しなければ助からない」というのは自力です。
では、なぜ助からないか、なぜ南無阿弥陀仏がいただけないか?という疑問をおこすことは大事です。
今はどのように思われるでしょうか?またコメントをいただければ幸いです。