安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

南無阿弥陀仏はどういう人を救うために成就されたのか(花さんのコメントより)

花さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏は十方衆生を助けるために南無阿弥陀仏を成就してくださいました。仏様の慈悲は苦ある者に偏に重しと聞かせて頂きましたが人生は楽なりと思っている人より、人生苦なりと苦しんでいる人が先に救われるのですか?

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090512/1242102913#c1242870833

回答します。
今現在どういう状況だから、先に救われるということはありません。
現在人生楽なりと思っている人も、いつどういう縁で人生苦なりとなるかもしれませんし、それがご縁となって仏法を聞こうと思われるかもしれません。
ただ、「人生苦の強弱」が、信心獲得を早めたり遅くしたりと言うことはありません。もし、そういうことが言えるのなら、人生苦をより味わうのが仏法を求めるということになってしまいます。しかし、それは聖道仏教、自力修行の仏教の発想です

苦しむ者に偏に重しといわれたのは、私たち人間の中に差別を設けられたということではありません。阿弥陀仏の目からご覧になられれば、みな同じなのです。自力で修行して悟りが開けるような人がいるとするなら、そういう者よりも、生死出離の行が一つもできないもの目当てに建てられたのが阿弥陀仏の本願です。

弥陀、誓を超発して、広く法蔵を開きて、凡小を哀れんで選んで功徳の宝を施することを致す。(教行信証教巻)

花さんがいわれるように、阿弥陀仏が願を建てられ、南無阿弥陀仏を成就されたのは、われら凡夫を哀れに思われて与えるためなのです。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あわれみ給いて願をおこしたまう本意、 悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。(歎異抄第3章)

歎異抄には、このように、どんな行をしてみても生死を離れることができない者と見抜いて阿弥陀仏が本願をおこされたのは、私たちを仏に成らせるためですから、阿弥陀仏に救われた人が、往生出来るのだといわれています。

大事なのは、どんな人が助かるのか?ということを聞いてその人をまねするのではありません。
私はどうしたら助かるのか?ということです。それが求道です。
我がごととして真実信心を求め、なかなか求まらないことに苦しむ人には阿弥陀仏の願力がかかっています。それはより仏の慈悲が強くかかってきたのではなく、もとから強く阿弥陀仏の慈悲がかかっているのですが、実感としてその人の身の上に現れただけです。

繰り返しになりますが、どんな人がたすかるのか?ではなく、私が助かるかどうかは、私と阿弥陀仏との間のことで、阿弥陀仏のただ今の救いに向かうかどうかが大事なことです。