安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「泣き泣き求める」というひな型はありません(花さんのコメント)

花さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

今救われたいと阿弥陀仏に向かうのですが、今助けて下さるという本願なのにどうして助かる自分と思えないのか、自分の心を凝視してみますと、山口善太郎のように泣き泣き求めていないから無理だ、いてもたっつてもおれず善知識からここ一つ聞かせていただかねば家に帰れない、という心もないから今の私には頂けない、毎日仏法のために使っている時間が少ない私はまだまだ、歩きながら阿弥陀仏にむかっている時は、こんな状態の時に楽に救われるはずはない、などいろいろな心が湧き上がってきます。このように見つめて、その心を捨てるということでよろしいでしょうか・・?_何度も同じような質問で申し訳ありません。自力の心とは何か、どんな心かがわかったようでわかりません。(花さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090609/1244547585#c1244892490

「泣き泣き求めていないから無理だ」というのは、「泣き泣き求める」という1つの型です。自力の心はその人その人のものですから、たった一つの決まったひな型があるのではないのです。
少し前のエントリーで、紹介したご和讃をもう一度紹介します。

釈迦弥陀は慈悲の父母
種々に善巧方便し
われらが無上の信心を
発起せしめたまいけり(高僧和讃)

種々に善巧方便しとは、一人一人の機に応じて導いて下されると言うことです。
「こんな状態の時に楽に救われるはずはない」というのも、一つの型です。
これも先の「泣き泣き求める」と同じで、「苦しまねば救われない」という一つの型なのです。

もろもろ雑行雑修自力の心を振り捨てて(領解文)

と仰っているのは、その通りですが、具体的に「泣き泣き求める」かどうかは、一人一人異なるのです。
お聖教の御文にある「自力を捨てよ」というのは、一般化した表現であって、心の問題は一人一人の心に問いかけねばなりません。

弥陀の救いをただ今にもってきたときに、花さんの心に浮かんでくる心が自力の心です。「これだ」とこちらが用意して提示するものではなく、花さんが提示するものなのです。

自力はこれと、提示をすれば、それがまたひな型になります。今回、いろいろ出されたものは自力の心ですから、捨てて、阿弥陀仏をたのむ身になってください。