安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「無明の酔もようよう少しずつさめ」と「やがてあらわに知られたり」(質問さんのコメントより)

質問さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
非常に長文のコメントでしたので、今回のエントリーでは全部についてお答えすることは出来ませんでした。

最初の部分について、エントリーいたします。

●末燈鈔の引用部分は、

・「無明」→「酒に酔っている状態」
・「煩悩」→「酒による毒」 とたとえられていますよね。

「毒(煩悩)は、酒(無明)から生まれてくる」と。
アルコールは毒性があるので、このたとえは分かり易いですよね。(質問さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090611/1244720176#c1244770699

これに関しては私は、上記質問さんがいわれている部分がよく分かりませんでした。

もとは無明の酒に酔いて、貪欲・瞋恚・愚痴の三毒をのみこのみ召しおうて候ひつるに、仏の誓いを聞きはじめしより、無明の酔もようよう少しずつさめ、三毒をも少しずつ好まずして、阿弥陀仏の薬を常に好む身となりて、在しましおうて候ぞかし。(末灯鈔)

上記のお言葉については、私は、「無明の酒に酔う」と「三毒をこのむ」は同義語だという理解です。質問さんの言葉でいえば「酒=毒」ではないでしょうか?

無明を破る力について、このたとえに即してみると、
「弥陀の誓(薬)には、無明(酒の酔い)をさます力がある」ということになります。
酒に酔っているとは体中に毒が回っている状態ですが、薬をのむと酔いがさめてきて、酔いがさめてくるとだんだん体内の毒が減ってくるので、「薬は毒を消す」はたらきがあるということになります。
薬(弥陀の誓)は毒(煩悩)を消すことができる、ということが言えます。(質問さんのコメント)

前回のエントリーで、私は上記の末灯鈔のお言葉は、弥陀の本願を聞き始めたら、欲や怒りや愚痴の心よりも本願に心が向くようになるということで書きました。
質問さんは、阿弥陀仏の本願に救われたことを言われたお言葉ということで意見を書かれています。
末灯鈔のお言葉を、阿弥陀仏に救われたときと解釈した場合でも、煩悩そのものが減ると言うことではありません。
「無明の酔もようよう少しずつさめ」といわれているのは、阿弥陀仏に救われて、真実信心を獲得された人が、阿弥陀仏の本願の働き、阿弥陀仏の願心がだんだんと知らされてくることを言われたお言葉です。
同様のことを、蓮如上人は御文章に以下のように書かれています。

他力の信心ということをば、今既に獲たり。これしかしながら、弥陀如来の御方より、授けましましたる信心とは、やがてあらわに知られたり。(御文章2帖目13通・御袖)

他力の信心と言うことを今既に獲たり。といわれたあと、これしかしながら、阿弥陀仏の方から授けてくだされた信心とは、やがてあらわに知らされたといわれています。
末灯鈔に「ようよう少しずつさめ」といわれていることを「やがてあらわに知られたり」とかかれています。
煩悩が減るということではなく、無明に覆われて知らされることがなかった阿弥陀仏の願心が、「ようよう少しずつさめ」て「やがてあらわに知られたり」となるのです。

獲信した一念に、なんでもかんでもすぐに一瞬でスッキリハッキリ、一切経が脳にダウンロードされるがごとくわかるということではないのです。
「不可称不可説不可思議の信楽」と親鸞聖人が書かれた教行信証は、52才の時に一度完成されたものです。29歳の時に阿弥陀仏に救われたといわれる親鸞聖人からすれば、実に23年後に完成されたご著書でもそのように言わずにおれなかったのですから、救われたその瞬間にすべてわかるのではありません。
※救われたことがまったくわからないということではありません。

さて摂取というは如何なる意ぞといえば、此の光明の縁に遇い奉れば、罪障ことごとく消滅するによりて、やがて衆生を此の光明の中に摂めおかるるによりて、摂取とは申すなり。(御文章3帖目1通・摂取と光明)

「やがて」と蓮如上人はなんども御文章に書かれています。これは阿弥陀仏に救われた実感から仰ったお言葉です。私もそのように感じます。

今回のエントリーでは、全部お答えすることはできませんでした。
続きを書く前に1つ、質問さんにお尋ねしたいことがあります。
質問さんのコメントをまとめると「獲信したあとは、煩悩がだんだんと減る」ということだと私は理解しております。
「獲信したあと煩悩がだんだん減るか減らないか」ということは、質問さんが、真実信心を求める上で非常に大事な事だとお考えでしょうか?
このブログは安心問答と名付けましたのは、浄土真宗の真実信心を求める人の、信仰相談の場となり、真実信心を獲得される上での何かの縁にでもなればと思い毎日更新しております。

質問さん自身は、信心獲得したいと思われますか?思われませんか?
煩悩が信後減るかどうかが、ハッキリしなければ、質問さんは真実信心を求める気持ちが起きないと言うことでしょうか?

真実信心を求める上での素朴な疑問にはいくらでもお答えします
質問さんが、どういうお気持ちで求めておられるのかお聞きしたいと思いました。よろしくお願いいたします。

元会員Xさんのコメントには明日エントリーしますのでよろしくお願いいたします。