安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

現在仏法を聞いてみようと思った心が菩提心(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「弥陀の浄土に生まれたい」という心(菩提心)が私に起ることによって、
それができないこと(流転輪廻)が問題になるということでしょうか。
「弥陀の浄土に生まれたい」という心がなく、弥陀の浄土に生まれたくないと思うのは、まだ菩提心が起されていないからでしょうか?「弥陀の浄土に生まれたい」というのはどういうように思う心なのか詳しく教えていただけないでしょうか?よろしくお願いします。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090604/1244116152#c1244244253

回答します。結論から言えば、菩提心が先になります。

ただ、どちらが先かは、当事者の実感には差があると思います。卵が先か、鶏が先かという問題です。

実感から言えば「弥陀の浄土に生まれたいから、流転輪廻が問題になる」人もあれば、「流転輪廻をしているから、弥陀の浄土に生まれたい」という方もあるでしょう。
しかし、「弥陀の浄土に往生できる」ということが前提になければ、「往生したい」も「流転輪廻から出たい」という心も起きませんから、やはり、菩提心が先になります。

Kさんのお尋ねに関して言いますと、実感からいえば、「弥陀の浄土に生まれたい」という心が起きなければ、菩提心ではないのかというとそうではありません。
「死にたくない」とか「死の問題を何とかしたい」ということも、広い意味では菩提心なのです。仏法を聞こう、浄土真宗の教えを聞こうという動機は、細かく言えば一人一人異なります。しかし、「こういう心でなければ求めてはならない」という狭い教えではないのです。
「こうでなければ」というハードルを設けては、十方衆生を相手の阿弥陀仏の本願に反します。

「弥陀の浄土に生まれたい」という心はどんな心か?詳しく教えてくださいということでしたが、その心をここに書けば、Kさんは、自分の心を当てはめたり、合わせようとされるのでしょうか?
仮に、あわせることができたとしても、それは借り物であって、自分の本心ではありません。体や口は他人のまねができますが、心は他人のいったような真似はできません。

現在Kさんが仏法を聞き求めようと思われている心が、実感としての動機はなんであっても「菩提心」なのです。