安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

疑っているのは「本願」ですか?「知識の言葉」ですか?(モグタンさん、maryさんのコメント)

モグタンさんと、maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

疑いというのは何に対する疑いなのでしょうか?
本当に助けてくださるのか?(または、実際助かるということがあるのか?)という阿弥陀仏に対する疑いですか?それとも、自分はこうだから助からないのではないかという自分にたいする疑いですか?ひょっとしたらこの2つは本質的には同じものなのかもしれませんが・・。
それとも、他でも聞きたいという教えてくださる知識に対する疑いなのでしょうか?(アニメ1部の親鸞聖人で考えると、知識に対する疑いではないのかもしれませんが。)
(モグタンさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090223/1235347967#c1235633629

それに対して、maryさんからコメントを頂きました。

mary 2009/02/28 05:47
モグダンさんの言われること、わたしもよくわからなくなっています。
関東の同行は、日蓮や善鸞の言動に動揺し、親鸞聖人を信じきれなくなって訪ねて行っています。
善知識に対する疑いは、疑煩悩という人がありますが、アニメで親鸞聖人が法然上人に教えを請う時の気持ちは全幅の信頼を寄せているように感じ、善知識を信じきれなくて親鸞聖人を訪ねた同行たちとの心はどう違うのだろうか・・と思いました。
(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090223/1235347967#c1235767661

maryさんのコメントと併せて、回答をいたします。

結論から書きますと、モグタンさんの質問の「疑い」というのは、本願を疑う心のことです。「自分のような者は助からない」と思うのも、「自分に対する疑い」といえますが「自分のような者は助ける力がない本願では?」と本願を疑っている心ですから、同じく本願を疑っている心なのです。

その上で、もう一つの事が質問として出ています。仏法を説かれる先生、善知識に対する疑いとはどういう関係なのか?ということについてお尋ねがありましたので、次にそれについて回答をいたします。

結論から言いますと、阿弥陀仏に対する疑いと、知識に対する疑いは別物です。
なぜなら、阿弥陀仏と善知識は役割が違うからです。
阿弥陀仏の役割、お仕事は、私を現在ただ今救い、正定聚の数に入る身に救い、浄土往生させることです。
では、善知識の仕事、役割は何かと言いますと。

善知識の能というは、「一心一向に弥陀に帰命したてまつるべし」と、人を勧むべきばかりなり。(御文章2帖目11通・五重の義)

善知識の役割は、「一心一向に弥陀に帰命しなさい」と、人に勧める以外にないと、蓮如上人は言われています。「勧める」人であって、「助ける」人ではありません。
ですから、私たちが流転を重ねる原因は、疑情といわれ、阿弥陀仏の本願を疑う心一つなのです。

還来生死輪転家 決以疑情為所止(正信偈)
(生死輪転の家に還来することは、決するに疑情をもって所止となす)

私たちが、生死流転を重ねそこから離れきれないのは、阿弥陀仏の本願を疑う「疑情」一つできまるのだといわれています。
決して知識を疑っているから、流転輪廻をするのではありません。知識は「助ける」役割ではないからです。歎異抄6章に言われていることはそのことからなのです。

師をそむきて、ひとにつれて念仏すれば、往生すべからざるものなりなんどということ、不可説なり。如来よりたまはりたる信心を、わがものがおに、とりかえさんと申すにや。かえすがえすもあるべからざることなり。(歎異抄6章)

師匠に背いて、他の人のところにいって仏法を聞き求めるような者は、助からないなどということは言ってはならないことだ。阿弥陀如来から賜る信心を、知識が与えたかのように思って、取り返そうとでもいうのだろうか。返す返すもそのようなことはあってはならないことだと言われています。阿弥陀仏=善知識ではないからです。

最後の質問ですが、

善知識に対する疑いは、疑煩悩という人がありますが、アニメで親鸞聖人が法然上人に教えを請う時の気持ちは全幅の信頼を寄せているように感じ、善知識を信じきれなくて親鸞聖人を訪ねた同行たちとの心はどう違うのだろうか・・と思いました。

善知識といわれる人の、人物や性格、説いている内容について疑うのが、疑煩悩です。説いている本願そのものについて疑うのが疑情です。

法然上人に対して親鸞聖人は、人物の上からも、教義の上からも、全幅の信頼を置いて聞かれていたのではないかと思います。その親鸞聖人は、法然上人への疑いは無かったでしょうが、阿弥陀仏の本願、ただ今救うという本願に対する疑いは救われるまでありました。ただ、法然上人の力で浄土往生できるとは思っておられなかったでしょう。

京都の親鸞聖人を訪ねてきた関東の同行の心境はどうかというと、長男の善鸞のこともあり、「やっぱり親子だから何か、秘密の法門でもあったのでは」という疑いが起きたということもあるでしょう。親鸞聖人という人物に対する疑いから、今まで聞いてきた教えそのものに対する疑いもでてきたということです。「本願・教え」よりも「人物」を信じていたのが、関東の同行です。人物が優先で、「親鸞聖人が説かれる教えだから」と、教えよりも知識が重くなっているひとが、教えに対して疑うのは、疑煩悩です。

「教えに対する疑い」が「疑情」で、捨てものであるというのなら、「何も考えないことが善」、「疑問が起きても質問することが悪いこと」になってしまいます。「合点せよ」も間違いになってしまいます。また、救われたら教義に対する疑いは一点もなくなるということになります。

ただ今弥陀に救われさい、「一心一向に弥陀に帰命せよ」という教えに向かったときに出てくる心が、疑情であり、自力の心です。捨てねばならないのはこちらです。

長くなりすみませんでした。

最後にまとめますと、現在ただ今弥陀に救われようとしたときに、「阿弥陀仏」にむかうのか「知識の言葉」に向かうのかということです。何に対する疑いが問題となり、実際に救う阿弥陀仏と、知識の役割の違いをよく知らねばなりません。