安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

後生のことはよくわからないのに、極楽や成仏のことをいうのはなぜか?(メールの質問)

後生のことはよく分からないのに、なぜに死ぬと同時に阿弥陀仏の極楽浄土へ往生して、仏のさとりを開くと浄土真宗ではいうのでしょうか?この辺がいつも分かるようでわかりません。失礼ながらたまにユートピア的な思想ではないかと思うことがあります。(メールで頂いた質問)

ユートピアというのは、辞書から意味を引くと「空想された理想的な社会。理想郷。理想の国。」と出てきます。

結論からいいますと、極楽浄土は空想上のありもしないものではないということです。
教義上、大無量寿経、観無量寿経、阿弥陀経に阿弥陀仏と極楽浄土について解説されています。
お尋ねは、経典・お聖教に説かれていることが、なぜ阿弥陀仏に救われた人は分かるのでしょうか?ということだと思います。

阿弥陀仏に救われるとは、南無阿弥陀仏の名号を阿弥陀仏から頂き、名号(仏心)と私(凡心)とが1つになることをいいます。これを仏凡一体といいます。

名号を頂き、信心の智恵に入るから、南無阿弥陀仏の働きで必ず弥陀の浄土に往生することができるのです。
それは、「行けると思う」から往生するのでもなく「有ると思うから行ける」ということでもありません。

如来の誓願を信じて一念の疑心なき時は、いかに地獄へ堕ちんと思うとも、弥陀如来の摂取の光明に摂め取られまいらせたらん身は、わが計にて地獄へも堕ちずして、極楽に参るべき身なるが故なり。(御文章2帖目4通・超世の本願)

阿弥陀仏の本願に救われると、どれだけ地獄へ堕ちると思っても、摂取の光明におさめ取られている身は、自分が思ったから地獄へは堕ちることはなく、極楽へ参るべき身になるのだと、御文章に言われている身になるのです。

「後生のことがわかる」とか「わからない」というのは、「わが計(はからい)」であって、後生が分かっても分からなくても、関係なく弥陀の浄土に往生出来ると言うことです。
なぜそれがわかるのか?という問いには、「わが計にあらず」と答えるのが一番適当なのです。とはいえ、ありもしないことを、あるように言っているのではありません。

阿弥陀仏に救われれば、南無阿弥陀仏の働きで、浄土に往生出来ることも、極楽へ往って仏のさとりを開くことも、本願通りのことですから、本願通りに救われればその通りになるのです。