安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

菩提心とはどんなものか(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。

質問お願いします。
(1)上記『何とか弥陀の浄土に生まれたいという最初の心を菩提心ともいわれ』とありますが、本人にはっきり「今菩提心が起きた(最初の、と書かれているので)」と自覚が起きるということでしょうか?
(2)『何とか弥陀の浄土に生まれたいという心』の起きた人は、そのとき「ここ一つ聞き抜かねば」とのど真剣な心も起きるということでしょうか?
そういう心が起きたつもりであって、実際は起きていないという場合もあるのでしょうか?
(3)『何とか弥陀の浄土に生まれたいという心』の起きた人でないと、今救っていただく事はできないのでしょうか?(そういう心が起きた人が救われるのでしょうか?)(maryさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090521/1242898828#c1243005329

回答いたします。
(1)(2)については、「菩提心」の定義について、もう少し詳しく解説をすると分かっていただけるのではないかと思います。
「何とか弥陀の浄土に生まれたいという心」のことを菩提心といいましたが、広い意味で、親鸞聖人の教えを聞き、続けて聞法している方にはこの心はあると思います。

抑、当流勧化の趣をくわしく知りて、極楽に往生せんと思わん人は、まず他力の信心ということを存知すべきなり。(御文章5帖目22通・当流勧化)

このようにいわれる「極楽往生せんと思わん人」とは、浄土真宗の教えを知って、「どうしたら救われるのか?」という心の起きた人のことです。その人に対して「他力の信心と言うことを存知すべきなり」といわれています。別の言葉で言えば、他力の信心を獲得しなさいと言うことなのです。
この「どうしたら救われるのか?」と、真剣になる人には、雑行雑修自力の心が問題になってきます。
ですから、菩提心とは、「どうすれば雑行雑修自力の心が捨てられるか」と問題になるということです。問題になると言うことは、「雑行が何かわからない」ということはありません。
問題になれば、自覚がないということはありませんし、起きたつもりで起きていないということはありません。

(3)については、「雑行雑修自力の心がなくならないと、助からないのでしょうか?」という意味の質問でしたら、その通りです。

問題は、菩提心を起こそうとするのでもなく、雑行を見つけようとするでもなく、阿弥陀仏にただ今救われるかすくわれないかを問題にするということです。