安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏は真剣に聞法させるといわれているのかについて(1さん、Kさんのコメント)

前回のエントリー(菩提心とはなにかについて(1さんのコメントより) - 安心問答(浄土真宗の信心について))についてのご質問です。

どうして浄土に生まれたいと阿弥陀仏の19願力でさせられて、『ここ一つ聞き抜かねば』となりますか?
19願文には阿弥陀仏は真剣に聞かせるとは誓っておられませんが。(1さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090521/1242898828#c1242912349

回答します。
阿弥陀仏の浄土に生まれるにはどうすればよいのか、それには「聞其名号」と本願成就文にお釈迦様が教えられているように、名号を聞く一つで、正定聚の身に救われることです。
「ここ一つ聞きぬかねば」というのは、「ただ今名号を聞即信せねば」ということです。名号を阿弥陀仏から頂き、信心決定の身にならねば、阿弥陀仏の極楽浄土へ往生することはできないからです。
名号を頂くにはどうすればよいのか、雑行雑修自力の心を振り捨てねばならないとなったひとは、どうしたら雑行を振り捨てることができるか、どうしたら自力を振り捨てられるのか、どう思ったら、どうしたら、法座に足をはこんだら、真剣に聞いたら、勤行をしたら、財施をしたら捨てられるだろうかと、いろいろな行をせずにおれなくなります。
「修諸功徳」には、上記のように、どうしたら自力がすてられるのかとありとあらゆることをしようとする行為が入りますから、真剣な聞法も入ります。

それを蓮如上人が御文章に書かれたのが以下のものです。

人間は老少不定と聞く時は、急ぎいかなる功徳・善根をも修し、いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり。(御文章4帖目3通・当時世上)

雑行自力を捨てる一つ、南無阿弥陀仏を聞く一つとなった人には、いつまで命があるのかという、自分自身の無常と南無阿弥陀仏を頂くのとどちらが先かの競争になりますから、そのことを「老少不定と聞く時は」といわれ、そうなれば「急ぎいかなる功徳・善根をも修し、いかなる菩提・涅槃をも願うべき事なり」となります。

以前のエントリーで紹介した。阿弥陀仏の願力によって善をさせられるのかについて(Tさんのコメント) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

諸善万行ことごとく
至心発願せるゆえに
往生浄土の方便の
善とならぬはなかりけり(浄土和讃)

この親鸞聖人のご和讃でいわれる「往生浄土の方便の善」とは、阿弥陀仏の第19願の願力によってさせられる善であり、どうすれば南無阿弥陀仏が頂けるのか、どうすれば弥陀の浄土に生まれることができるのか、どうすれば自力の心を振り捨てることができるのかと、あれこれ思うこと、体でやること、口でいうことを指していわれています。
「諸善万行ことごとく」ですから、「財施などの善」に限らず、真剣な聞法もはいります。

もともと求めていた人が仏法に出会った場合と仏法聞いてから求め始めた人の場合で違うように思います。
発菩提心の後に仏法(弥陀の救い)を聞いた場合、菩提心=聞法心というと変です。
仏法(弥陀の救い)を聞いてから、発菩提心ならば、菩提心=聞法心=至心発願欲生我国でいいでしょう。
ただ阿弥陀仏から見られたら同じなのかも知れませんね。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090521/1242898828#c1242915283

Kさんのコメントにもありますように、なにを指して菩提心というかによって、話は変わってきます。
私が、ブログ上で解説してきたのは、仏法とご縁があり、阿弥陀仏の本願の救いを聞いている人が、「発菩提心」させられる場合のことをいっています。

阿弥陀仏の第十九願は、「発菩提心 修諸功徳」です。「真剣な聞法をさせる」という文字で書かれていなくても、「ただ今救われようと、あらゆることをせずにおれなくする」ということです。
聞法でいえば、聞法せずにおれなくなるのです。