メールを頂きましたが、内容が大事なことだと思い、エントリーします。
「聴を通らなければ聞には行けない」「弥陀の三願のみ心一つを釈尊は45年間説かれた。聴とは仏教のすべてをきくこと、まずは因果の道理から。きいておるだけではだめ。実行しないと。」との話で終わりました。救いに4段階あるようにも聞こえるし、聴聞の聴くが、仏教のすべてをきくとなると、仏教は名号一つ教えられたもの、願成就文の教えだけといわれたのに、また仏教全体に戻ってしまっていてぐるぐるまわっている気がしました。(私は、聴聞とは「仏願の生起本末を、疑心あることなしとなるまできくことだ」と説明されると思っていたのですが・・。)(メールより抜粋)
浄土真宗の法座で、仏教のすべてを聞くためにまずは因果の道理からというのは、話の道理にあわないところです。まずは因果の道理を聞いて実践している間は、弥陀の本願を聞かなくてもよいということなのでしょうか?
この言い方ですと、弥陀の本願を聞く資格を取得するために、因果の道理を実践し、廃悪修善につとめるようにしか聞けません。
親鸞聖人が、聴聞の聞くということについて、メールで頂いた文面にあるように言われています。
「聞」と言うは、衆生、仏願の生起・本末を聞きて疑心有ること無し。これを「聞」と曰うなり。(教行信証信巻)
「聞」とは、阿弥陀仏が本願を起こされた本末を聞いて疑心有ることなしであるといわれています。これは南無阿弥陀仏を頂いて、願に相応する身になったことをいわれています。
「聴を通らなければ聞には行けない」?
この言葉遣いは、主語抜きのトリックです。
主語が正しければ、問題ない言い方になりますが、主語が違えば、浄土真宗の教えと反対の意味になります。
この「聴」=19願の願力、20願の願力、「聞」=18願の救いということで、以下のように阿弥陀仏を主語として説明をする分には問題はありません。
「阿弥陀仏の19願の願力、20願の願力によって、阿弥陀仏が18願の世界に出させて下さるのだから、この願力のはたらきによらねば、18願の世界には行けない」
しかし、「通らなければ」という言葉は、「私が実行しなければ」としか、一般には理解されない言葉です。主語がなくても文章は成立しますが、この省略された主語は一体何なのかということが問題なのです。
「私が、19願の諸善万行を実行しなければ、18願の世界にでることはできない」というならば、阿弥陀仏の19願を、私が実行して救われるということになります。
御文章には、このように言われています。
南無阿弥陀仏といえる行体には、一切の諸神・諸仏・菩薩も、その他万善・万行も、悉くみな籠れるが故に、何の不足ありてか諸行・諸善に意を留むべきや。(御文章2帖目9通・忠臣貞女・外典)
往生浄土する働きは、この南無阿弥陀仏に収まっているのだから、その上なんの不足があって諸善をして足しにしようというのだろうかといわれています。
南無阿弥陀仏だけでは、足りないから諸善を足してたすかりなさいと言う本願ではありません。
その名号の話をして、「聞其名号」の部分の解説をしているはずが、いつのまにか因果の道理にしたがって実行(廃悪修善の実行)しなさいという話になれば、聞かれた方が混乱するのは当然のことと思います。
「信心決定あれかし(聞其名号あれかし)」(ただ今信心決定しなさい)から、「信心決定するための資格を取得しなさい」と、救いにいくつも段階を設けることは求める人の内心にあってとしても、説く者がそれを助長するのは大変な間違いです。