安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「氷多きに水多し」(高僧和讃)の「氷と水」は「氷上燃火の喩え」の「氷と水」と違うでしょうか?(園児さんのコメントより)

園児さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
また、返事の記事作成が遅くなり申し訳ございませんでした。abcさんにも、コメントを書いて頂き有り難うございました。

園児
〔略)
罪障功徳の体となる
氷と水のごとくにて
氷多きに水多し
障り多きに徳多し  (高僧和讃)

高僧和讃の曇鸞讃にあるので曇鸞大師の御著書と関連があるのだろうと思い、浄土論註(下)を拝見しましたら

「また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。」

という話に行き当たりました。氷上燃火の譬えというそうですが、氷と水が出てきて氷が解けて…と大変近い話と思いました。ただ、ご和讃と違うのが火が出てきてそれが水により消えてしまうという下りです。ご和讃と同様に氷が煩悩、水が功徳と考えると、ご和讃には出てこない火の存在は何を譬えられたものでしょうか?氷と水を含めて親鸞聖人と曇鸞大師では譬える対象が違っていたりするのでしょうか?

ご解説いただければ幸いです。 よろしくお願いします。
(コメント欄より)

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2019/01/27/070602

abcさんもコメント欄で書かれていますので、そちらも御覧頂ければと思います。
そこで、園児さんのお訊ねについて書いていきます。


先に、結論だけ書きますと、上記のご和讃は、園児さんが引用された浄土論註の部分から出されたものではありません。
では、どこから親鸞聖人はこのご和讃を書かれたのかを書いていきます。

「こほりおほきにみずおほし」のご和讃について

お尋ねのご和讃ですが、これは、直前のご和讃と連なるものなので、そこから続けて引用します。

(39)
無碍光の利益より
 威徳広大の信をえて
 かならず煩悩のこほりとけ
 すなはち菩提のみづとなる
(40)
罪障功徳の体となる
 こほりとみづのごとくにて
 こほりおほきにみづおほし
 さはりおほきに徳おほし
(41)
名号不思議の海水は
 逆謗の屍骸もとどまらず
 衆悪の万川帰しぬれば
 功徳のうしほに一味なり
(42)
尽十方無碍光の
 大悲大願の海水に
 煩悩の衆流帰しぬれば
 智慧のうしほに一味なり
浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P585)

https://bit.ly/2Bfaaq4

この4首のご和讃で、一続きのものと成っています。
内容を大まかにいいますと、煩悩しかない私のような凡夫は、阿弥陀仏の本願力(名号・南無阿弥陀仏)によらねばすくわれないということを言われています。



以下、現代語訳を書きます。

(39)
無碍光の人々を救おうとされるはたらきによって、
すばらしい説くのある大きな他力の信心をえて、
必ず氷のような煩悩も融け、
そのまま功徳に満ちた水のようなさとりとなる
(40)
罪やさわりが功徳のもとになる。
氷と水の関係のように、
氷が多ければ水が多く、
さわりが多ければ功徳も多い。
(41)
名号という不思議な海水には、
五逆罪の者と教えを謗る者という死骸もとどまらない。
衆悪というすべての河川もおまかせすれば、
功徳という潮と一つの味になるのである。
(42)
あらゆる世界に満ちている無碍光仏の仏の、
大きなお慈悲の本願力という海水に、
煩悩というすべての流れもおまかせすれば、
智慧という潮と一つの味になるのである。


(39)の和讃に「煩悩のこほりとけ」(煩悩の氷融け)「すなはち菩提のみづとなる」(菩提の水となる)とあります。
それに対応するように(40)のご和讃にある「こほり(氷)」は「煩悩」のことです。そして「みづ(水)」は「菩提(さとり)」のことをいわれています。
そして、上記にあげた4首の連なったご和讃では、(41)(42)は「海水」「潮」という言葉が出てきます。どんなものも海水に入ると一味になるように、どんなものも本願力によって同じように救われるということを言われています。


ですから、今回園児さんが揚げられた(40)のご和讃は、浄土論註では「海」について説かれたご文から作成されたものということになります。

「海」について書かれた部分

そこについて、親鸞聖人は教行信証行巻に浄土論註を引文されています。
ここでは、その前に親鸞聖人が書かれている部分と併せて紹介します。

 「海」といふは、久遠よりこのかた凡聖所修の雑修・雑善の川水を転じ、逆謗闡提・恒沙無明の海水を転じて、本願大悲智慧真実・恒沙万徳の大宝海水と成る。これを海のごときに喩ふるなり。まことに知んぬ、『経』に説きて「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」とのたまへるがごとし。{以上}(浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版教行信証行巻P197)
(現代語訳)
「海」というのは、久遠の昔から今まで、凡夫であれ聖者であれ、自力で修めてきた、さまざまな川の水に等しいような雑行、雑修の善根を転換し、悪人が積み重ねてきた、大海の水ほどもある五逆罪、謗法罪、一闡提など、数限りない無明煩悩の濁水を転換して、本願によって成就された大悲智慧の真実なる無量功徳の宝の海水に成らせることです。
 この転成のはたらきを海のようだと喩えたのです。
これによって、経に「煩悩の氷がとけて功徳の水となる」と説かれている意味がよくわかります。

https://bit.ly/2D4jJIh

この後に、浄土論註から二つ引文されていますが、その一部を紹介します。

【94】 またいはく(論註・上 八四)、「〈海〉とは、いふこころは、仏の一切種智深広にして涯なし、二乗雑善の中・下の屍骸を宿さず、これを海のごとしと喩ふ。
浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版教行信証行巻P198)

(現代語訳)
また次のようにいわれている(往生論註)。
 「<海>というのは、すべてを知り尽しておいでになる仏の智慧が、深く広く果てしなく、声聞や縁覚の自力の善の死骸を宿さないことを、海のようであるとたとえるのである。

https://bit.ly/2WwgCSB

上記にあげたように、「阿弥陀仏の本願力によらねば救われない」ということを、親鸞聖人は曇鸞大師の浄土論註から「海」の譬えを引文されています。そこから、煩悩しかないような者が救われることを、「煩悩の氷解けて功徳の水と成る」と書かれたことからご和讃は作られました。


そこで、(40)のご和讃は「浄土論註」のどこから親鸞聖人が作られたのかと言えば、上記にあげた教行信証行巻の部分からということになります。


ただこの教行信証でいわれる「経に説きて」といわれる「経」は今日でも明確には分からないとされています。


「氷上燃火の喩え」について

次に、氷上燃火の喩えについて書きます。先に書きましたが、(40)のご和讃とは直接関係はありません。


まず、氷上燃火の喩えの意味について、浄土真宗辞典から紹介します。

ひょうじょうねんか 氷上燃火
『論註』(七註126)に出る喩え。往生を実体的な生としか認識できない下品下生の凡夫であっても、名号のはたらきによって往生すれば、浄土の徳によって見生の惑(実の生があるととらわれる心)が消えて無生の智慧へと転じられていくことを、氷の上で燃えている火が、氷を水に変えるとともに、その溶けた水によって自身も消えてしまうことに喩えていう。
浄土真宗辞典


これについて、もう少し補足をしますと、浄土論註では、上記のことについての問答があります。

かの浄土はこれ阿弥陀如来の清浄本願の無生の生なり。(略)
問ひていはく、上に、生は無生なりと知るといふは、まさにこれ上品生のものなるべし。もし下下品の人の、十念に乗じて往生するは、あに実の生を取るにあらずや。ただ実の生を取らば、すなはち二執に堕しなん。(浄土真宗聖典―註釈版 (七祖篇)P125・浄土論註)

https://bit.ly/2S1NL9W

ここに書かれいる大まかな意味は、「阿弥陀仏の浄土は『無生の生』」である。しかし、それを 理解出来るはそうとう上等な人(上品)に違いない。もし、そうではない人(下下品)ならば、それを受け入れることが出来ないから、救われないのではないか?というものです。


それに対して、答えられた部分に出てくるのが、氷上燃火の喩えです。

答ふ。たとへば浄摩尼珠を、これを濁水に置けば、水すなはち清浄なるがごとし。(略)
また氷の上に火を燃くに、火猛ければすなはち氷解く。氷解くればすなはち火滅するがごとし。かの下品の人、法性無生を知らずといへども、ただ仏名を称する力をもつて往生の意をなして、かの土に生ぜんと願ずるに、かの土はこれ無生の界なれば、見生の火、自然に滅するなり。(同上)

大まかな意味は、こうなります。
「それについて答えます。たとえば、ものすごい力をもった宝珠があって、それを濁った水に置けば、水がきれいになるようなものです。(略)
また、氷の上に火を燃やせば、火が強いほど氷が溶けます。そうなると、溶けた氷の水で火が消えるようなものです。どうにもならない者(下下品)は本来の浄土のありかたを知らなくても、南無阿弥陀仏によって、浄土に往生するのだという思いを起こして、浄土に生まれてたいと願うならば、浄土は「無生の生」の領域であるので、実体的な生をみようという迷いは本願力によって消えていまいます。」
と言うものです。


ここでいう「氷」というのは、名号の働きということになります。「火」というのは「煩悩(見生の惑)」ことです。つまり、火(煩悩・見生の惑)が、水に消されるように、名号の働きによって、私の煩悩(火)は消されてしまうということです。ただ、私の力で氷が水になるということを喩えたものではありません。私のようなもの(火)によりそって、働くいて下さる阿弥陀如来の名号(氷)が、やがて水となって火を消して下さるということです。



少し分かりにくいので「無生の生」についても、浄土真宗辞典から紹介します。

むしょうのしょう 無生の生
無生無滅の生のこと。浄土への往生は凡夫が認識するような実体的な生ではなく、消滅変化(迷い)を超えたものであるということ。『論註』には「かの浄土はこれ阿弥陀如来の無生の生なり」(七註123)とある。
浄土真宗辞典

言い替えると、浄土往生とは、私たちが日ごろ考えるような「死んでから、また何かに生まれる」というようなものではないということです。そうなると「そんなの分からない」と私は思います。しかし、そんなものでも浄土往生させて頂けるのは名号のお働きであることをいわれたものが、氷上燃火の喩です。

まとめ

最後にまとめますと、(40)のご和讃は、浄土論註の氷上燃火の喩えから出たものではありません。

ご和讃では
氷=煩悩
水=功徳水(救い)

浄土論註、氷上燃火の喩えでは
氷=本願力
水=本願力
となり、喩えた内容が異なります。