安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

煩悩と戦うのか?求道の相手について(メールで頂いた質問)

善導大師の二河白道の譬えで,二河の道を進んでいくのは煩悩との戦いであり,煩悩が邪魔になる,罪悪をおそれるとあります。その畏れてる者に「畏れるなー」という弥陀の呼び声が届くと聞いています。

ここで言われる煩悩との戦い,煩悩が邪魔になる,罪悪をおそれるとはどういうことでしょうか。
欲や怒りの心で苦しむということでしょうか。
欲や怒りの心が邪魔をして,真剣な聞法求道ができないということでしょうか。
欲や怒りの心で造る罪悪(謗法罪)をおそれるということでしょうか。

自力の心で苦しむということでしょうか。
阿弥陀仏の本願を疑う心が邪魔をして,南無阿弥陀仏を頂けないということでしょうか。
阿弥陀仏の本願を疑う心で造る罪悪(仏智疑惑の罪)をおそれるということでしょうか。
(メールで頂いた質問)

回答する前に、質問されている方がどのように感じられているのかが、一番の問題です。

善導大師の二河白道の譬えに関しては教行信証に親鸞聖人が書かれている部分は、長いので、浄土文類聚鈔から紹介します。

<中間の白道>といふは、すなはち、貧瞋煩悩のなかによく清浄願往生の心を生ぜしむるに喩ふ。仰いで釈迦の発遣を蒙り、また弥陀の招喚したまふによりて、水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず(浄土文類聚鈔)

中間の白道とは、貪欲瞋恚の煩悩のなかに起こされた、聞法心を喩えたものです。仰いでお釈迦様のおすすめに従い、阿弥陀仏のお招きによって、水の河、火の河を顧みず、阿弥陀仏の願力によって起こされた道を進むといわれています。

そこで、煩悩が邪魔になるとか、恐れるとはどういうことかというと、なんとかここ一つという聞法心が起きない間は、煩悩が邪魔をするから助からないのだと思い、ただ今助かろうという心になった人には、自力が問題になるのです。
聞法中の雑念や、仏法を聞こうという心に対して種々おきる心は、ただ今助かろうという心が起きなければ煩悩以外になにもありません。ですから、煩悩がなければよいのにという心になりますが、本当に煩悩が往生浄土の邪魔になるなら、煩悩がなくならなければ助からないということになります。
煩悩の中に起こされるのであって、煩悩がなくなって起きるのはありません。
上記のお言葉で言えば「水火二河を顧みず、かの願力の道に乗ず」とありますように、阿弥陀仏の本願どおりに救われれば、煩悩は往生浄土に問題ならなくなります。

求道は煩悩との戦いという人もありますが、戦う相手が本当に煩悩ならば、戦いの勝利とは、煩悩に打ち克つことにほかなりません。求道の目的が、浄土往生とするなら、煩悩に打ち克たねば浄土往生出来ないということになってしまいます。