安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

聞法心は阿弥陀仏によりおこさせられるもの(迷い猫さんのコメントより)

迷い猫さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

せっかく願力で起こされた尊い聞法心を、自力と決めつけ捨てようとするのは、大変もったいないことです。捨てようとするものがらが違っているから堂々巡りになるのは当然です。
聞法心がなければ、何も始まりませんが、聞法心がおこされて阿弥陀仏を信じようとする心を全部自力と思うのは間違いです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090503/1241306555

と書かれてあるところをみて、ここで言われている聞法心と自力の違いがはっきりわからず、堂々巡りに陥ったら怖いと思って、コメントをしました。
(迷い猫さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090506/1241563339#c1241583805

阿弥陀仏の願力でおこされた聞法心とは、仏とも法ともわからない私たちが、仏法を聞くご縁に恵まれたということとは異なります。
それも広い意味で願力によっておこされた聞法心ですが、上記のエントリーで書いたものは、阿弥陀仏の本願を聞くようになった方が、なんとかただ今救われたいという気持ちになられたことをいいます。

「阿弥陀仏に救われるなんてあるものだろうか」
「ただ今救われるといっても、今はそんな気持ちになれないからまだ先だろう」
「もう今生では無理だろう」
などなどと思っている人が、「ただ今救われよう」と思うのですから、これは阿弥陀仏の願力によって起こされた尊い聞法心なのです。

発菩提心 修諸功徳(阿弥陀仏の第19願)

と、阿弥陀仏は第19願に誓われています。これは、十方衆生にむかって、菩提心を発させてみせるといわれ、その上で、菩提心をおこさせた人に、諸の功徳を修めさるという誓いなのです。

菩提心というのは、ここでいえば「聞法心」であり、「ただ今救われよう」という心です。その菩提心を阿弥陀仏がおこさせてみせると誓われているのであって、「もろもろの功徳を修めなさい、そうしたら菩提心がおきますよ」と誓われているのではないのです。

上記のエントリーの言葉で言えば「邪見憍慢悪衆生」と阿弥陀仏は見抜いて本願を建てておられます。そんなものには、「菩提心」もないのですから、菩提心もおこさせると誓われているのです。
阿弥陀仏の第19願ですから、「阿弥陀仏が」十方衆生に「こうしてみせる」という約束をされたものです。

それを山口善太郎さんの歌では

聞けよ聞けよの、お勧めが 耳に聞こえりゃ機にあわず
少しも聞く気の、ない奴に 不思議と聞く気が、起こりそめ

と書かれています。
ここで、ただ今救われようと、不思議と聞く気のおきた人はどうなるでしょうか?
「どうしたら助かるだろうか?」「○○というのは自力」「どうすれば自力が廃るだろうか?」と、自力がどうしたら廃るのかが問題となってきます。
それを

自力他力の水際を くわしく教うる、人はなし
真の知識に、あいたやと 聞けば千里の、その外の
海山越えてもいとわじと

と歌っています。
海山越えても探そうという気持ちはどこからくるかというと、自力他力の水際を知りたい心がおきているからです。ただ今救われようという聞法心のおこされた人に、自力他力の水際が問題になってくるのです。聞法心が全部自力と言うのは間違いです。

ただ今の救いが問題になれば、自力も自ずと問題になってきます。
ただ今の救いが問題になるまえに、自力を問題にすると堂々巡りになります。前後を間違えると、堂々巡りになるのです。