安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「常に心は往生一定でなければならないのでしょうか」(頂いた質問)[King Gnu『白日』の話]

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時々「こんな心では…」と心配になることがあります | Peing -質問箱-
Peing-質問箱-に頂いたものです。
画像では小さいので,質問箱に書いた回答を以下に書きます。

往生一定といわれるのは阿弥陀仏の方で、私の心が特別変わらない心になる訳ではありません。
また、常に往生せよとの阿弥陀仏の仰せを聞いて疑いないから、私の往生も一定となります。
質問でいわれる「心配になる」というのが、阿弥陀仏の仰せについてのことならば、疑いがあるということになりますが、自分の胸のうちを見てのことならば、また違ってきます。自分の心を見て阿弥陀仏への疑いが出るというのならば疑いがありますし、それでもやはり疑いないというのであれば往生の心配は不要です。

これに加えて書きます。
阿弥陀仏に救われたとしても、私の煩悩が少し止まったり、消えたりするわけではありません。
それについて、親鸞聖人は一念多念証文にこのようにいわれています。

「凡夫」といふは、無明煩悩われらが身にみちみちて、欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころおほくひまなくして、臨終の一念にいたるまでとどまらず、きえず、たえずと、水火二河のたとへにあらはれたり。(一念多念証文 注釈版浄土真宗聖典P693)

http://urx3.nu/RkT5

質問された方が、「こんな心では・・・」といわれるのが、どういう心なのかは明確ではありまませんが、仮に煩悩によってあれこれ思うこと(欲もおほく、いかり、はらだち、そねみ、ねたむこころ)であれば、それは親鸞聖人がいわれるように、死ぬまで変わりません。


阿弥陀仏がただ今助けるの仰せを聞いて疑いない状態になったとしても、煩悩は少しも変わりません。つまり、南無阿弥陀仏に疑いないという点では大きく変わるのですが、私の煩悩は何も変わらないのであれこれといろいろ思うことがあります。そういう心を見てみると、「あさましいな」と思う人もあるでしょう。


しかし、そこで「だから私は助からない」と元に戻ってしまうのならば、元々疑いが晴れていなかったということになります。ただ、阿弥陀仏の本願に対する疑いが晴れたということと、私の煩悩がスッキリとなくなることは違います。実際に生活をしていくと、さまざまな人間関係をはじめとして、これまで自分が積み重ねてきたものは、本願に疑い晴れても消えたりすることなく続いていきます。浄土真宗ではそういうものを、「宿業」と呼んできました。阿弥陀仏に救われて、疑い晴れたといっても、いわゆる宿業までもきれいさっぱりなくなるということはありません。

「白日」(King Gnu)の話

この阿弥陀仏に救われたとしても、煩悩は死ぬまでとどまらず消えず絶えずということを、歌でよく表現したのがKing Gnuの「白日」のサビの部分だと私は思いました。

King Gnu - 白日
歌詞全体は、こちらをご覧ください。
King Gnu 白日 歌詞 - 歌ネット

この歌は2019年にヒットして紅白歌合戦でも歌われました。この記事作成時点でyoutubeで2億9千万回以上再生をされています。同年日本テレビ系で1月から放送された「イノセンス 冤罪弁護士」の主題歌としてつくられたものです。そういうドラマの主題歌だと思って聞くと実によくできています。
とはいえ、私もこの歌を知ったのはここ最近でした。その歌詞の内容が上記に述べた内容をとてもよく表現していたのでその部分を紹介したいと思います。

真っ新に生まれ変わって
人生一から始めようが
へばりついて離れない
地続きの今を歩いているんだ(「白日」より)

ここは、サビの部分のフレーズで、ほぼ同じ内容が曲の終盤にも出てきます。

私個人のこととして振り返ると、以前の私は信心決定すれば、浄土往生定まる身になればあらゆるものから自由になれると思っていました。確かに一面では、そうなります。いつどんな目に遭い、またどんなことを思ったとしてもそれが阿弥陀仏の救いの妨げにはなりません。しかし、他方では、それまで生きてきた人間関係や環境、自分の過去の言動はそのまま引き継いだままで何も変わりません。


「真っ新に生まれ変わって人生一から始めよう」と思っていても、「へばりついて離れない地続きの今を歩いているんだ」というのが現実です。
浄土往生の道を歩んでいくのも本当ですが、その一方で煩悩は何も変わらないので、それまでの考え方やどんな時に煩悩が起こるのかということも変わりません。信仰面では大きく変わったといっても、生活は地続きのまま「今を歩いている」のが実態です。
「こんなことでは・・」と質問された方が書かれたようなことは、よくあります。それでは申し訳ないと思いますが、それで浄土往生の道が断たれるということはありません。


ずっと以前の私は「こんなことを思っていては信心決定はできなくなる」と自分を責めるような考え方をしていました。こんな自分ではなくもっと真剣に法を求め、後生を苦にして夜も眠れないような人でなければ救われないのではとも考えたことがあります。


そのあたりも、「白日」の歌詞にあったので紹介します。

朝目覚めたら
どっかの誰かに
なってやしないかな
なれやしないよな
聞き流してくれ(「白日」より)

朝目覚めたら、絵に描いたような真面目な聞法者になってやしないかと考えますが、実際はそんな風になれやしないわけです。自分は今の自分ではない何者かに変わりたいと思っていても、なかなか変わることはできません。といいますか、私の人生を振り返っても自分はやはり自分であって「どっかの誰かに」なったことはありません。


そういう私をそのまま引き受けて救って下さるのが、南無阿弥陀仏です。今でも、私自身は20年前、30年前の私と変わりません。煩悩も変わりません。阿弥陀仏からご覧になれば、どうでもよいようなことを思い、それで悩んだり、右往左往しています。変わったのは年齢を重ねたことによる身体的な変化くらいです。そんな状態ですから、往生一定というのも、阿弥陀仏の方からいえば全く問題はありませんが、私の心はいろいろ動き、生活の上で何かが起きると浄土のことも頭から離れてしまいます。

心は往生一定と常になくても、阿弥陀仏が常に摂取不捨で私を浄土に往生させてくださるということに疑いなければ問題はありません。


参照

今回、「白日」の歌詞をブログ本文で一部引用しました。それについては、はてなブログ上ではOKとなっています。
気になる方は以下を参照して下さい。


staff.hatenablog.com