安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「煩悩ではなく、自力によって苦しむ、ということですが、信前の者はその両者の区別はつくものなのでしょうか?」(新垣真さんのコメントより)

新垣真さんのコメントについて、多くの方からコメントをいただきました。有難うございました。

煩悩ではなく、自力によって苦しむ、ということですが、信前の者はその両者の区別はつくものなのでしょうか。
今まで煩悩を強調した私の発言は問題があったと思いますが、救われて初めて煩悩ではなく、自力が障りであったと知らされるものだと思っていましたので、信前の混同した意味で雑念、妄念と言っていたところがあったと思います。
是非、煩悩と自力の見分け方を解説いただければと思います。(新垣真さんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20111230/1325189550#c1325358033

煩悩と自力の区別はつきます。救われて初めてその違いが分かるというのは間違いです。言い換えると煩悩と本願疑惑心の区別がつくから親鸞聖人は疑を誡めて、信を勧められました。

二河白道の譬えでいえば、煩悩は水の河、火の河にあらわされる貪欲瞋恚の心です。それに対して、自力とは白道を前にして一歩踏み出そうかどうしようかと、躊躇する心です。

また、自力について、親鸞聖人は御消息に以下のように書かれています。

まづ自力と申すことは、行者のおのおのの縁にしたがひて余の仏号を称念し、余の善根を修行してわが身をたのみ、わがはからひのこころをもつて身・口・意のみだれごころをつくろひ、めでたうしなして浄土へ往生せんとおもふを自力と申すなり。また他力と申すことは、弥陀如来の御ちかひのなかに、選択摂取したまへる第十八の念仏往生の本願を信楽するを他力と申すなり。(親鸞聖人御消息6-浄土真宗聖典(註釈版)P746)

http://2gg.kn.sl.pt

自力とは、「わがはからひのこころをもって」阿弥陀仏に救われるのにプラスになると考えている善を体で行い、口で称え、心を整えて往生しようとする心です。本願に対して手助けをこちらでしようとする心です。

新垣さんのコメントでは、「雑念・妄念」と心のことを問題にされているので、心について言えば「こんな煩悩が起きなければ救われるのに」と考えているのが自力です。

二河白道の譬えでいえば、「火の河、水の河の波が高いから白道に一歩足を踏み入れることができないのだ。もっとこの河の波が小さければ白道に足を踏み入れることができるのに」と考えて、火の河、水の河の波を問題にしているのが自力です。それは「そのまま来い、ただ今救う」と呼びかけられる阿弥陀仏の喚び声声を、聞かず、疑っている相ですから、本願疑惑心とか疑情とも言われます。

ちなみに、二河白道の譬えは、阿弥陀仏の招喚の声とお釈迦様の発遣を聞いて一歩白道に足を踏み入れたのが信心だと言われたものです。それに対して、高森顕徹会長が「白い道を一進一退しながら進み進退極まったときに初めて弥陀の呼び声が聞こえる」と解説するのは全くの間違いです。

本願を聞いていろいろな感情は沸き起こリます。しかし、元来持ち合わせている煩悩で欲を起こしたり、腹を立てたりする心は、文字通り煩悩です。その「煩悩を何とかしなければ、阿弥陀仏は助けてくれないだろう」が「わがはからいのこころ」と言われる自力です。

しかし、自分の力で自力をなんとかしようとするのは、結局煩悩と格闘している人と同じでどうにもなりません。そもそも、阿弥陀仏の本願の仰せを聞かずに、わがはからいを挟んで右往左往しているのが自力ですから、自力を捨てるといっても本願を聞く以外にありません。

ただ今救うの本願をただ今聞いて救われてください。