安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

聴聞とは煩悩との戦いなのか?(メールより)

前回のエントリーに関連して、メールを頂きましたので回答します。

御法話で
「二河の道を進んでいくのは煩悩との戦いであり,煩悩が邪魔になる,罪悪をおそれる。その畏れてる者に「畏れるなー」という弥陀の呼び声が届く」と聞きましたが,それはどういうことかなと思って質問しました。

私的には,煩悩との戦いというのは,「遊びたい楽したい聴聞に行きたくない」という心に打ち勝って,聴聞に出かけたり活動に参加したりすること,邪魔になるというのは,聴聞やお勤めの最中に煩悩が邪魔をしてなかなか真剣に聞けない,つとめられないこと,罪悪を恐れるというのは,悪いことをした時など,こんなことでは助からないのではという心ではないかと思っていました。

しかし,何かちょっと違うような感じがして,次のようにも言えるのではないかと思いました。自分の今の状態というのではなく,あくまで勝手な想像です。

煩悩との戦いというのは,疑情(これも煩悩と聞いたことがあります)がどうしたらなくなるのか,どうしたら晴れるのかと葛藤すること,邪魔になるというのは,疑いや自力の心がなくならないために南無阿弥陀仏を頂けないこと,罪悪を恐れるというのは,一念の時に知らされる弥陀のみ心に反する心ではないかと思いました。(メールより抜粋)

往生極楽の道を聞こうとするときに、煩悩が邪魔になるかといえば、「遊びたい、楽したい」と往生極楽は無関係なので対立するものではありません。邪魔になるというのは対立関係があるから邪魔になるのではありません。
煩悩具足ですから、「遊びたい、楽がしたい」という心が無くなるのでは有りません。
「聴聞に行きたくない」というのは、聴聞が苦行となっているからではないかと思います。5年10年20年と聞いても心に変化が生じないし、それでも真剣に聞けば何か変が起きるという気持ちでは、「どれだけ真剣になるか勝負」となり、これでは聴聞が修行になってしまいます。

信心獲得するというのは、真剣になろうとした努力の結果、真剣になれたことでもなければ、真剣になれない自分を知らされたことでもありません。
真剣になりきれない自分を知らされるためには、真剣に聴聞しなければならないというのは、目的が違います。獲信のための聞法なのです。

信心獲得すというは、第十八の願を心得るなり。この願を心得るというは、南無阿弥陀仏のすがたを心得るなり。(御文章5帖目5通・信心獲得)

信心獲得するというのは、阿弥陀仏の第18願を心得ることであり、それは南無阿弥陀仏を頂くことなのです。
この意味からいえば、聞法の「法」とは南無阿弥陀仏のことです。聞法とは、「聞其名号」のことであり、「信心獲得」のことなのです。
聞法の勧めとは、「信心獲得の勧め」であり、「信心決定あれかし」ですから、足手を運び黙って座っていることではありません。
ですから「聴聞に行きたくない」という言葉でいう「聴聞」は、蓮如上人が「聴聞に極まる」とは意味が異なるということになります。

なぜなら、聴聞に行きたくないという言葉からいわれるものは、信心獲得したくないということとは意味が異なるからです。いろいろな事情で参詣はしたくないということであって、信心獲得したくないということではないと思います。

「聴聞」と「御法話会場に足手を運ぶ」「参詣」はイコールではないのです。聴聞に極まるとは、「聞其名号に極まる」「信心獲得に極まる」「ただこの信心一つに限れり」であって、「参詣に極まる」ではないのです。

悪いことをしたときに、こんなことでは助からないというのも、考えが違います。「悪いから助からない」なら、南無阿弥陀仏でも助からない悪が有るということになります。阿弥陀仏が本願を建てられてたときに想定していなかった悪が現れたということはありません。

そこで、

しかし,何かちょっと違うような感じがして

といわれるとおりで、先に書かれたような理解は間違いです。

煩悩との戦いではなく、自力の心との戦いです。「雑行を棄てて」「自力の心を振り捨てて」というお言葉はありますが、「煩悩を捨てよ」という教えは信心獲得するかどうか、阿弥陀仏に救われるかどうかには関係のないことです。

関係ないものだから、親鸞聖人は比叡山を下りて行かれたのです。親鸞聖人の教えに従うとは、比叡山での修行(煩悩との戦い)をすることではありません。

ただ今救う阿弥陀仏の本願に向かい、本願と私を妨げる自力の心を振り捨てて、ただ今救われることなのです。