安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

往生の正因は悪人と知らされることでしょうか?(名無しさんのコメントより)

名無しさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、最も往生の正因なり。

他力をたのみたてまつるためならば、悪人と知らされたものでなければなりませんが、自己を善人と思っている人でもただ今救われますか?
(名無しさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090504/1241396159#c1241503418

歎異抄の悪人正機について質問を頂きました。
回答します。
名無しさんのコメントの文脈上の「自己を善人と思っている人」でもただ今救われます。
この「自己を善人と思っている人」という定義によってはそうではないともいえます。

名無しさんのコメントの文面上、私が読む限りでは「自己を善人と思っている人=悪人と知らされていないもの」と思います。

しかし、「他力をたのみたてまつるために、悪人と知らされ」ねばならないとは、歎異抄に書かれていません。歎異抄3章での「悪人」とは、同じ歎異抄の文中の言葉で言えば「煩悩具足のわれら」のことです。そこで、「悪人」を「煩悩具足のわれら」に置き換えますと、「他力をたのみたてまつるために(阿弥陀仏にすくわれるに)は、煩悩具足われらと知らされねばならない」ということはありません。
阿弥陀仏に救われるかどうかは、

自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。(歎異抄3章)

自力の心を捨てて、他力に帰すれば、真実の極楽往生が出来るのだといわれています。煩悩具足われらと知らされるかどうかが問題ではありません。

他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。(歎異抄3章)

とは、他力をたのむ煩悩具足の凡夫が、もっとも往生の正因なりということですが、「往生の正因」は、「他力をたのむ」ことであって、悪人と知らされたかどうかではありません。

名無しさんの文脈上では「自分を善人と思っている人」とは、私が読む限りでは、「自分は善ができると自惚れている者」であって、「自惚れという煩悩のやまない者」と読めます。その前提で今回は、回答として「自分を善人と思っている人」でもただ今阿弥陀仏に救われますと書きました。

もし「自分を善人と思っている人」を「自力を捨てて、他力をたのんでいない人」という意味で書いておられるのならば、「自力を捨てて、他力をたのんでいない人」というのは現在救われていない人のことですから、そういう人でも、その自力を捨てて他力をたのめば、ただ今救われます。

ただ今救われなければ、救われる時はありません。しかし、今まで救われなかったからただ今救われないということはありません。
ただ今救うという本願にただ今救われて下さい。

参照 歎異抄3章全文

善人なおもって往生をとぐ、いわんや悪人をや。しかるを世のひとつねにいわく、「悪人なお往生す、いかにいわんや善人をや」。 この条、一旦そのいわれあるに似たれども、本願他力の意趣にそむけり。そのゆゑは、自力作善のひとは、ひとえに他力をたのむこころかけたる間、弥陀の本願にあらず。しかれども、自力のこころをひるがえして、他力をたのみたてまつれば、真実報土の往生をとぐるなり。煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あわれみ給いて願をおこしたまう本意、 悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もっとも往生の正因なり。よって善人だにこそ往生すれ、まして悪人はと、仰せ候いき。