安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

言葉にできないと、心も言葉もたえたの違い(メールでの質問)

メールで頂いた質問ですが、大事なところなので、ブログにもエントリーいたします。

信心決定の一念の時には、暗い心が一瞬でパッと明るい心に切り替わる様に感じる(ちょうど暗い部屋で電気をパッと付けたイメージ)のだと考えていたのですが、このイメージは間違いという事なのでしょうか?黒い紙と白い紙位にハッキリ変わり目が自覚でき、また黒と白位私の心が違った感じになるのかと想像していたのですが…。(メールでの質問)

お尋ねの件について回答いたします。
信心決定の一念に、ぱっと明るい心に切り替わるというのは、自覚の上ではないことです。
自覚の上ではないというのは、言葉上説明しますと、自覚できたときは救われた後のことで、救われた一念が自覚できるものではありません。
自覚できるのなら、「不可思議の信楽」ではなく「可思議の信楽」になります。

ただこれ不可思議不可称不可説の信楽なり。(教行信証信巻)

(意訳)阿弥陀仏に救われた世界は、想像することも、称えることも、説くことも出来ない信心である。

自利利他円満して
帰命方便巧荘厳
こころもことばもたえたれば
不可思議尊を帰命せよ(浄土和讃)

そのため、親鸞聖人は、心も言葉も絶えたと言われています。

心も言葉も絶えたというのは、日常生活の体験と同じような自覚があるけれども説明が出来ないということではありません。熱かったのでも、寒かったのでも、うれしかったのでも、悲しかったのでもありません。
「こころもことばもたえたれば」や「不可思議不可称不可説の信楽」というお言葉は、私たちが日常想像する「言葉にできない」とは違うのです。
生命保険のCMで有名なオフコースの「言葉にできない」から抜粋しますと

あなたに会えて ほんとうによかった
嬉しく嬉しくて 言葉にできない
La la la la la la(略)
言葉にできない(小田和正作詞作曲・言葉にできない より)

こういうものとは違います。これは心では自覚がありますが、言葉にすることが出来ないというので、親鸞聖人のお言葉を使いますと、上記の歌は「可思議不可説」といったとこころです。「不可思議不可称不可説」ではありません。

真実信心は、私たちの煩悩(三業)と無関係の信心だから、信心決定の一念は自覚されないのです。

阿弥陀にはへだつるこころはなけれども 蓋ある水に月は宿らじ

という蓮如上人が詠まれたとされるがあります。
(意訳)
阿弥陀仏には、○○できる人だけ助けるという差別をつける心は無いけれど、蓋のある水には月は宿らないように、自力の心の蓋がある人には真実信心が宿ることはないのだ、

このたとえ話でいいますと、「自覚がある」ということは水面に変化が生じるということなのです。水面に喩えたのは、私たちの心のことですから、水面の波の動きは、自覚できる心の動きです。
ふたがとれて、水面に月の光が映ったそのときに水面が波立ったり、波がなくなったりするでしょうか?
波が立ったり、波がなくなるというのなら、私たちが自覚できると言うことです。煩悩と関係がある信心ということになります。

水面に月が映ると言うことは、水面の波の動きと無関係なのですが、水面に月が映っているのはあきらかです。それは月を仰ぐと水に映るのがわかるように、法を仰げば弥陀の願力も、他力の信心も知らされてくるのです。知らされるというのも、真実信心の分からないものが、真実信心を知る智恵を身につけたと言うことではありません。

南無阿弥陀仏のはたらきによって知らされるということなのです。
阿弥陀様からご覧になれば、救われる前後の水際の一念は分かられるでしょうが、凡夫の自覚の上ではわからないから一念の信心を不可称不可説不可思議の信楽といわれるのです。

大慶喜といわれる心も、「今宵は身にもあまる」といわれる心も、法を仰いで言われていることなのです。信心が三業にあらわれたのであって、信心=三業の変化したものではありません。あくまでも真実信心と、三業(煩悩)は無関係なのです。