安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏が救うと願われるから救われるということ(Kさんのコメント)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私が出発点になるとか阿弥陀仏が出発点になるというのは
「自分が思う・思わない」ということとは別に何か違いがあるのでしょうか?
阿弥陀仏が出発点で回向される南無阿弥陀仏なのだから、だからどうなのでしょうか?(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091201/1259623570#c1259682026

回答します。
「自分が思う・思わない」が、救いと関係有るとしますと、「自分が思う・思わない」を阿弥陀仏に回向して、その引き替えに阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を回向して下されるということになります。

こうなりますと、99%は阿弥陀仏の力ですが、あとの1%は、私が「思う・思わない」を足さないと、阿弥陀仏の願いが、願い通りに成らないということになります。
浄土往生の費用を、阿弥陀仏がほとんど出されるのですが、あと10円だけは私が出さねばならない、と言っているようなものです。

阿弥陀仏が出発点というのは、私があと10円出す必要はありません、ということです。阿弥陀仏は、あと10円出すだけで良いように本願を建てられたのではありません。往生については全部受け持ちますから救われて下さいという願です。

煩悩具足のわれらは、いづれの行にても生死をはなるることあるべからざるを、あはれみたまひて願をおこしたまふ本意、悪人成仏のためなれば、他力をたのみたてまつる悪人、もつとも往生の正因なり。(歎異抄3章

煩悩具足の私たちは、どのような行を自分で行ったとしても生死を離れることはできません。そこを哀れに思われ願いを起こされた阿弥陀仏の本当のお心は、私を仏にさせるためですから、阿弥陀仏の本願どおりになる人は、必ず往生することができると言われています。
無いものを出せとは言われません。「他力をたのめ」といわれるのです。

どうしても出さねば気が済まぬという方は、自信教人信の活動で大いに発揮されたらいいのです。阿弥陀仏の大慈悲は「いづれの行にもて生死をはなるることあるべからざる」私にかかっているのです。
その大慈悲心によって起こされたのが、「そのまま救う」という願いです。
「そのまま救うけど、少しだけ手助けして下さい」という願ではありません。
善人ぶる必要も、悪人ぶる必要もありません。賢人ぶる必要も、愚人ぶる必要もありません。
善人(悪人)のふりをした張り子の部分に阿弥陀仏の慈悲がかかっているのではありません。「いづれの行にても生死をはなるることあるべからざる」所に阿弥陀仏の慈悲はかかっています。

阿弥陀仏が救うと願われて、働かれるから、救われるというのが、阿弥陀仏が出発点ということです。必ず、救われますから、ただ今救われて下さい。