安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「信ずる心がない」という言葉について(迷い猫さんのコメント)

迷い猫さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

これは「信ずる心がない」という言葉だけが先行して、自分の心を見つめる前に、結論を先に出しているからおきる疑問だと思います。
邪見憍慢の者が本願を信ずるということについて(メールでの質問) - 安心問答(浄土真宗の信心について)

この点について、もっと詳しく教えていただけないでしょうか。
頭だけで考えているのと、自力の心がどのように違うのかがわかりません。
(迷い猫さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090503/1241306555#c1241490289

信じる心がないということについて、別の言い方で書きます。
「私たちには信ずる心がない」という言葉は、誰が言うかによって意味が異なってきます。
「阿弥陀仏が」煩悩具足の凡夫には阿弥陀仏を信ずる心がないと言われる場合と、「信前の私が」煩悩具足の凡夫は阿弥陀仏を信ずる心がないという場合は、言葉は同じでも変わってきます。

凡夫に信ずる心がないといわれているのは、阿弥陀仏です。私が元々そう思っているのではありません。もし「私には信ずる心がない」と思っているなら、阿弥陀仏の救いを求めるはずがありません。本当にないと自分で思っているのなら、阿弥陀仏の救いを求める人は誰もいなくなってしまいます。

この「信じる心」とは、往生浄土の因であるところの「真実信心」のことです。御文章では「まことのこころ」と言われているものです。

信心といえる二字をば、『まことのこころ』と訓めるなり。『まことのこころ』というは、行者のわろき自力のこころにては助からず、如来の他力のよきこころにて助かるが故に、『まことのこころ』とは申すなり。(御文章1帖目15通・宗名・当流世間)

信心という二字を「まことのこころ」と読むのです。「まことのこころ」というのは、私たちのわるい自力の心では助からず、往生浄土ができないので、阿弥陀如来の他力のよいこころ(信心)にて助かるから「まことのこころ」というのだ。

「信ずる心がない」というのは、「信心がない」ということであり、「他力の信心がない」ということなのです。「他力の信心がない」とわかるのは、「他力の信心」がわかる方だけです。

「私たちには信じる心がない」と言われる親鸞聖人、蓮如上人は、他力の信心を獲得された上で仰っていることです。真実信心を決定しないまえから、「私たちには信じる心がない」といっても「信じる心」が何か分からないのですから、言葉はあっても意味のない言葉です。
別の言葉で言いますと、言葉だけ救われたこといって、心が一致していないということです。
たとえば「往生一定です」と、言葉だけいって喜ぶ心もでないのと同じで、「私たちには信ずる心がない」といっても、懴悔もなければ、そういう者の為に本願を建てられたことを感謝する心もありません。

結果は「私たちには信ずる心がない」と言われるとおりですが、その結論だけ先において、そこにあわせようとすれば、他力のまねであって他力ではないのです。そのまねをして、あわせたらなんとかなれるというのを自力と言うのです。

まねして救われるのではありません。自力を捨てて他力に帰するのですから、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。


迷い猫さんからコメントを頂いておりますが

頭だけで考えているのと、自力の心がどのように違うのかがわかりません。

これについて、もう少し具体的に教えて頂けないでしょうか?お手数をかけて申し訳ございませんがよろしくお願いいたします。