安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

阿弥陀仏の本願に向かう私、逃げる私(orimaさんのコメント)

orimaさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

変な質問かも知れませんが、ここの、阿弥陀仏の本願に向かう、とは、どのようなことなのでしょうか。(orimaさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090306/1236288566#c1240669411

コメントのついているエントリーの該当部分からしますと、この部分かと思います。

大事なことは阿弥陀仏の本願に向かって、ただ今救われることです。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090306/1236288566

回答します。
「阿弥陀仏の本願に向かう」とは、「阿弥陀仏の救いに向かい合う」ということです。言い方を変えると「阿弥陀仏の救いから逃げない」ということです。
「阿弥陀仏の救いを求めているのであって、逃げたことはない」と思われるかもしれませんが、自覚と実態というのはことなるものです。阿弥陀仏が助けに来られないのであって、自分はずっと待っているのだと思われるかもしれません。
信心数え歌のなかに

九つ
ここにいながら正定聚 光明摂取のあみの中
逃げても逃がさぬお慈悲とは ほんに今まで知らなんだ

という部分があります。
逃げるというのは、何から逃げるかというと、阿弥陀仏から逃げると言うことです。上記にあげた信心数え歌でいえば「正定聚 光明摂取の網の中」にいても逃げるということです。
阿弥陀仏に救われても逃げるということは、救われても阿弥陀仏から逃げる、浄土往生から逃げるのが私たちの姿だということです。orimaさんがおそらくよく聞かれた言い方で言いますと「地獄と聞いても驚かず 極楽と聞いても喜ばぬ」のが本当の姿なのです。
親鸞聖人のお言葉で言いますと、このようにいわれています。

定聚の数に入ることを喜ばず、真証の証に近くことを快まず。恥ずべし傷むべし。(教行信証信巻)

弥陀の浄土往生が定まった身になったことを喜ぶ心がない、死んで弥陀の浄土に行くことが近づくことを楽しむ心もない。恥ずかしいことだ、痛ましいことだと懴悔されているお言葉です。

阿弥陀仏に救われても、逃げるということは、救われても変わらない姿が、阿弥陀仏から逃げる姿だということです。阿弥陀仏にただ今救われると「逃げる私」が「逃げない私」に変化するわけではありません。「逃げる私」はいつまでたっても「逃げる私」なのです。

阿弥陀仏がなかなか助けに来て下さらないと言われる方がありますが、それは私がじっと一つの場所に待っていて、阿弥陀仏が来られるのを待っているというイメージなのかもしれません。
バス停でバスを待つように思っておられるかもしれませんが、実態をバス停とバスに喩えるなら、全力でバスから逃げるバス停にいるようなものです。バスは一生懸命バス停に追いつこうとしているのを、必死で逃げ回っているのです。

その一例が「ただ今の救い」と聞いて、「ただ今救われよう」と思う心がおきないというところにあります。
本願から逃げている私だからこそ、本願に向かわねば、本願から逃げまわる自分だと言うことはいつまでたっても分からないでしょう。
もちろん、阿弥陀仏の救いはただ今の救いですから、ただ今弥陀に救われると言うことです。逃げる自分がわかってから、ようやく救われるというような時間的な差はありません。

本願に向かってというのは、ただ今救われるということです。