メールで質問を頂きました。
有り難うございました。
名号を受け取ろうと思っているつもりです。今でも、いつでも頂けるはずだと思うのですが、心は緊迫感もなく、ぼんやりしているので、このぼんやりした心がすっきりはっきりなるのが、信心を頂くことなのでは、と思ったりします。
緊迫感は本当に弱いのですが、解決できなくてもよいとは思いません。このまま晴れたも曇ったもわからないまま、臨終になると、流転輪廻していく気がします。それは避けたいです。
はっきりなりたいと思って、阿弥陀仏に、このはっきりしない心を晴らしてもらおうと思っているのですが、何か間違っていますでしょうか?(メールで頂いた質問)
回答します。
語弊も有るかも知れませんが、「すっきりした」のが信心でもありませんし、「はっきりした」のが信心でもありません。
ただ、信心決定すれば、「往生一定、御助け治定」とはっきりします。
この違いについて分かっていただければ回答したことになると思います。
名号に向かっていっても、緊迫感もなく、ぼんやりしているとのことですが、救われたも緊迫感もない、むしろ逃げる心は信前信後を通してかわりません。
もちろん、「晴れたも曇ったもわからない」のがよいのではありません。
歎異抄のお言葉を出してのお尋ねですが、何がハッキリするのかということが大事なのです。
煩悩具足の凡夫・火宅無常の世界は、万のこと皆もって空事・たわごと・真実あること無きに、ただ念仏のみぞまことにて在します。(歎異抄)
煩悩具足の凡夫がすむ、火宅のような無常の世界は、すべてのことはそらごとであり、たわごとであり、真実変わらないものが何一つない、ただ南無阿弥陀仏のみがまことなのだといわれているところです。
南無阿弥陀仏といわれても、救われる前は何のことか分かられないとおもいますが、救われたら知らされるといいましても、仏様になるわけではないのです。
仏心と凡心と一つになるところをさして信心獲得の行者とはいうなり。(御文章2帖目9通・忠臣貞女・外典)
南無阿弥陀仏と凡夫の心が一つになるところをさして、信心獲得の行者というのだと蓮如上人はいわれています。
仏心と凡心がひとつになるというのは、凡心が仏心に変化するということではないのです。凡心は凡心のまま、仏心は仏心のままでかわりません。凡心のまま仏心、仏心のまま凡心というのが仏凡一体といわれるところなのです。その人を信心獲得の行者といわれています。
「ただ念仏のみぞまこと」はその通りなのですが、現在ハッキリしないと思う心は、救われても変わらない心なのです。変わらないなら、なぜ「念仏のみぞまこと」と言えるのかといえば、それが仏心の働きによるものなのです。
ハッキリしないから南無阿弥陀仏と一体にならないのではありません。一体になるところを妨げているものが、雑行雑修自力の心なのです。
それがなくなることを信心獲得とも、南無阿弥陀仏と一体ともいわれます。
それはただ今のことですから、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。