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?さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
私は阿弥陀仏のみ心を知ることが大事だと思い、阿弥陀仏に向かってきたつもりですが、本当にただ今頂けることがあるのか?
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20091008/1254989295#c1255509163
ただ今救われることがあるのか・?と落ち込み、阿弥陀仏に向かう意欲が起きてきません。どうしたらよいですか?(?さんのコメント)
回答します。
本当にただ今救われることがあるのか?という点については、本当にただ今救われることが有ります。
そこで、「救われることが有るのか?と落ち込み、阿弥陀仏に向かう意欲が起きてきません」ということについては、意欲というのは波があるので、そういう時こそ急いで急がずの心が大事だと思います。
阿弥陀仏は、向かう者だけ助けて下される仏ではありません。向かわねば救われない本願ではありません。阿弥陀仏の救いを摂取不捨の利益といいわれるのはそのためです。
「摂取不捨」とは、親鸞聖人は「摂はものの逃ぐるを追はへ取るなり」といわれています。
おさめとりて捨てずという意味ですが、具体的にどういうことかを、御一代記聞書から紹介します。
一、徳大寺の唯蓮坊、摂取不捨のことわりをしりたきと、雲居寺の阿弥陀に祈誓ありければ、夢想に、阿弥陀のいまの人の袖をとらへたまふに、にげけれどもしかととらへてはなしたまはず。摂取といふは、にぐるものをとらへておきたまふやうなることと、ここにて思ひつきたり。これを引き言に仰せられ候ふ。(御一代記聞書・205)
(大意)徳大寺の唯蓮坊が、摂取不捨の意味を知ろうと、雲居寺の阿弥陀仏に祈願されたところ、夢に阿弥陀仏がでてこられた。阿弥陀仏が唯蓮坊の袖を捕まえられたので、逃げようとしてもしっかりつかんで離されなかった。「摂取」とは、逃げる者を捕らえて離さないと言うことを、このことから知らされた。
気持ちが落ち込まれることもあるかと思いますが、私が逃げても阿弥陀仏は逃がして下さいません。必ず救うという、阿弥陀仏の本願ですから、逃げてもしっかりつかんで離されません。
逃げる者を追いかけてでも捕まえられるのです。阿弥陀如来の本願は、阿弥陀仏に近づいていくことができる善人を助けるのではありません。阿弥陀仏に向かわず、苦しみ悩んでいるものを追いかけて捕らえて離されず救って下されるのです。
必ずただ今救われることがあります。気弱になったり、落ち込んでも、阿弥陀仏はかならずただ今救って下さいます。