安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

信心獲得できなかったらどうなるか?(名無しさんのコメント)

無常を知るのが大事なのは分かったのですが、
信心獲得しなかったら一大事とは、どうなることを指して言われるのでしょうか?
信心獲得しなかったらどうなるのですか?
(名無しさんよりコメントを頂きました)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090425/1240625819

回答します。
親鸞聖人は、信心獲得しなかったら、別の言葉で言いますと疑情(自力)が晴れなかったらどうなるかということについて、いろいろな言い方で教えておられます。

若しまたこの廻疑網に覆蔽せられなば更りてまた昿劫を逕歴せん。(教行信証総序)

もし生きている間に、疑情が晴れず阿弥陀仏に救われなければ、また長い間流転を重ねていくと言われています。
また別の所でもこのように言われています。

無際より已来、助・正間雑し、定・散心雑わるが故に、出離その期無し。自ら流転輪廻を度るに、微塵劫を超過すれども、仏願力に帰しがたく、大信海に入りがたし。(教行信証化土巻)

遙か過去から、自力の心があるために、流転輪廻から出て離れることがなかった。自ら流転輪廻したことを考えてみると、微塵劫という長い長いあいだかかっても、阿弥陀仏に救われる事はなかったといわれています。

正信偈にも

還来生死輪転家
決以疑情為所止(正信偈)
(生死流転の家に還来することは、決するに疑情を以て止まる所となす)

といわれています。

流転輪廻、生死流転を重ねていくのだと言われています。
阿弥陀仏にただ今救われ、弥陀の浄土に往生する以外には、流転輪廻を重ねていくのだと言われているのです。

流転輪廻と言っても、何のことと思われるかもしれませんので、別の言葉で説明しますと、信心獲得できなかったらどうなるか?それは死んだら分かりますというのが適当かと思います。

死んだ後が、嫌な世界だから真実信心を求めるのではないのです。弥陀の浄土に生まれたいから、真実信心を求めるのです。
次に生まれるところが、人間の世界であっても、畜生の世界であっても、地獄の世界であっても、それとは関係なく、弥陀の浄土に生まれたいと求めるのが信仰です。「往生極楽の道」を教えられたのが、親鸞聖人です。

また弥陀の救いは、死んだ後に決まるのでもなく、現在ただ今の救いですから、現在ただ今救われているかどうかが大事なのです。

orimaさんのコメントに対するエントリーは明日書きますのでよろしくお願いいたします。