安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

真面目かどうか、逃げる心について(本田さん、Rudelさんのコメント)

本田さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

私は、不真面目な人間です。活動熱心な親鸞会員の皆様からみれば、全然、お粗末。法に対する姿勢、思いは不純です。
でも、弥陀に救われたいなという思いは、あります。
ですから、毎日、安心問答を拝見しております。
「なんとか救われたい、阿弥陀さま、どうか私を救ってやってください」、そんな思いで、いつもおります。(本田さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090906/1252246029#c1252502740

質問コメントではありませんが、横から失礼します。

自分は不真面目だというのが、何を基準にするかによって変わります。
真面目か不真面目かというのは、ある基準について誠実であるかどうかだと思います。阿弥陀仏に救われたいという思いを持っておられるのでしたら、阿弥陀仏の本願に対しては誠実だということになります。

特定の団体のルールや指示に忠実であると言うことは、組織に所属する人間としての真面目さということだと思います。しかし、どれだけルールに忠実であっても、阿弥陀仏のただ今の救いを遠ざけて、ただ今救われようと思わなければ、浄土真宗としては不真面目です。

大事なのは法に向かってどう思っているかです。ただ今救われたいという思いが大事です。
真剣さが足りないとか、心が乱れるとか、阿弥陀仏を思う心が続かないのは、不真面目といいません。

願力無窮にましませば 罪業深重もおもからず
仏智無辺にましませば 散乱放逸もすてられず(正像末和讃)

阿弥陀仏の願力には限りがありませんから、どれだけ罪が深く重いものでも助けることができます。
阿弥陀仏の智慧には届かないところがありませんから、どれだけ心が散り乱れているといってもそれを捨てられることはありません。

阿弥陀仏は現在も助けようと働いておられます。それに対して、どういう心が起きるか?または、どういうことを思っているかが大事です。それは、一人一人感じ方は異なると思います。

Rudelさんからコメントを頂きました。有り難うございました。

確かに、阿弥陀仏のすくいから逃げている心があります。
「今救われて下さい」と教えていただきますが、「いま救われる本願なんだから、今救われなきゃ」と思う一方で、
何か救われるのが怖いのか何なのか、逃げている気持ちです。
なぜこうなってしまうのでしょうか。(Rudelさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090908/1252411776#c1252505680

回答します。
逃げる心というのは、自力の心だからです。
逆謗の屍と聞きますと、打っても叩いても響かないものしかないのが私の心だと思います。しかし、ただ今救おうという阿弥陀仏の本願に対しては、自力の心が働きます。

自力の心は、いろいろな表現がされますが、その一つが逃げる心というのもあります。
ただ今の救いを、ただ今と思えない心があるので、ただ今と踏み込まれると逃げていってしまうのです。阿弥陀仏はそれを一生懸命追いかけておられるのです。

逃げる心があると表現されるのでしたら、逃げないで下さい。阿弥陀仏の救いに、ただ今救われて下さい。