こころさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
親鸞聖人が、善に励まれて、雑毒、雑修の善だと知らされて名づけられたのも、虚仮諂偽の行と名づけられたのも、急作急修して頭念を払う灸うがごとくされて、はじめて知られたことですよね。これは、すべての人も通るみちのりだろいうことです。(こころさんのコメント)
http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090424/1240526286#c1240573751
コメントの前段から回答をいたします
コメントを頂いたエントリー*1で、親鸞聖人の教行信証のお言葉を引用したことについての質問です。
一切凡小一切時の中に、貪愛の心常に能く善心を汚し、瞋憎の心常に能く法財を焼く。急作・急修して頭燃を灸うが如くすれども、衆て「雑毒・雑修の善」と 名け、また「虚仮・諂偽の行」と名く。「真実の業」と名けざるなり。この虚仮・雑毒の善を以て、無量光明土に生ぜんと欲す、これ必ず不可なり。(教行信証 信巻)
「この虚仮・雑毒の善では、絶対に極楽往生はできない」と仰っているのは、善に励まれた結果ではなく、阿弥陀仏に救われて知らされたことです。
「これ必ず不可なり」という断言は、阿弥陀仏に救われなければ言えないことです。なぜなら、虚仮の行だろうが、雑毒の善だろうが、やれば何かの足しになるだろう、「信仰が進むだろう」と思うのが自力の心だからです。
自力の心のある間には、「これ必ず不可なり」とは思えないからです。
もし、善に励んだ結果「これ必ず不可なり」と知らされるのであったらならば、善に励めば、自力の心が無くなることになります。善に励んだら、阿弥陀仏に救われると言うことになります。
善に励んで助かるということは「必ず不可なり」なので、阿弥陀仏は本願を建てられて、南無阿弥陀仏を成就され、私たちに与えて下されるのです。これを利他真実の信心と親鸞聖人はいわれています。
親鸞聖人は、上記の教行信証のお言葉に続けて言われています。
如来、菩薩の行を行じたまひしとき、三業の所修、乃至一念一刹那も疑蓋雑はることなきによりてなり。この心すなはち如来の大悲心なるがゆえに、かならず報土の正定の因となる。如来、苦悩の群生海を悲憐して、無碍広大の浄信をもって諸有海に回施したまへり。これを利他真実の信心と名づく。(教行信証信巻)
阿弥陀如来が、法蔵菩薩として行をされているときは、三業共に疑蓋交わることはありませんでした。この心は阿弥陀仏の大慈悲心であるから、必ず弥陀の浄土往生が定まる因となります。阿弥陀如来は苦しむすべての人を、哀れに思われて、南無阿弥陀仏の名号を与えて下される。これを利他真実の信心と名付けるのですといわれています。
ということは、私たちが親鸞聖人と同じ道を進むには、徹底して善をやって、真実の善が微尽もできなかったと思い知らされるところまで、善を実行しなければ、19願から20願の念仏まで、進むことが出来ないということではないでしょうか。(こころさんのコメント続き)
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回答します。結論からいいますとそうではありません。
19願も20願も阿弥陀仏の願ですから、こころさんの言葉を使っていえば「19願から20願の念仏まで、進む」といってもそれは、阿弥陀仏の願力によるものであって、私が「徹底して善をやった」からではありません。
徹底して善をした人にだけ、南無阿弥陀仏を与えるという阿弥陀仏ではありません。もしそうなら、すべての人が平等に救われると言うことはありません。
凡聖逆謗斉廻入(正信偈)
「凡夫・聖者・逆謗ひとしく廻入すれば」
と親鸞聖人が言われているように、凡夫でも聖者でも逆謗でも等しく救われるのが阿弥陀仏の本願です。
諸善万行を勧められるのは、自惚れ一杯で善ができると思っている私たちに、善をやってみてはじめて、善ができない己を阿弥陀仏の光明によって知らせていただいたとき、はじめて20願の念仏に心が移行していきますよ。だから、信仰が進むと言われたのは、19願の諸善万行、20願の念仏、そして18願の世界に転入するまで、心が光明のお育てにあって進むことを言われているんじゃないでしょうか。(こころさんのコメント後半)
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「善が出来ると思っている」ことが救われない原因ではありません。自惚れも1つの煩悩ですから、煩悩は救われる前も後も変わりません、
救われても「自惚れ心」は無くなりません、やった善をあてにして助かろうという自力の心がなくなるだけです。
自力の心は、阿弥陀仏の本願力によってのみ捨てさせられるものですから、私が善をやったとか、善が出来ない自分を自覚したと言うこととは関係有りません。
救われて振り返れば、すべて光明のお育てによるものと知らされますから、光明のお育てという点ではその通りです。
たまたま行信を獲ば、遠く宿縁を慶べ。(教行信証総序)
何の間違いか阿弥陀仏に救われてみれば、振り返って遠くからの阿弥陀仏の光明のお育てを喜ばずにおれない、と言われています。
阿弥陀仏に救われるのはただ今のことですから、○○してからはじめて次の段階に行ってからでないと救われることは無いというようなものではありません。
もしそうなら、現在救われていない人が、1分後に死ぬとなったら救われる人はほとんど無いのではないでしょうか。
時間がかかると思われて、これから先も時間がかかると思われるかもしれませんが、阿弥陀仏の救いはただ今の救いですから、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。