安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

苦しみ=自分自身ではありません(Kさんのコメントより)

Kさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

「阿弥陀仏は阿弥陀仏の望まれる結果を得られるでしょうけれど、私が望んでいることと違うのではないか?私はそれで満足できないのではないか?」というような感じです。阿弥陀仏の救いから切り離されてしまいそうな、突き放されたような、見放されたような感じです。

私にとっては問題でないのなら、それまでであって、救われる必要はありません。と思います。
私にとって問題にならないことが問題になったときは、あたかも私にとっても問題であるかのように見えるのでしょうか?
流転輪廻は苦しみであってそこから逃れたいというような意味はないのでしょうか?こういう考えは耳にすることはありますが、私は受け付けられない、理解できないものです。苦しみ=自分自身、という感じがするのです。苦しみから離れることは自分自身を捨てるに等しいという思いが強くそればかりです。(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090602/1243939159#c1244040244

回答します。
ひろみさんからのコメントにもありましたが、「問題にならないことが問題になる」のですから、私にとっての問題であり。私自身の問題なのです。
「流転輪廻が苦しみである」というのは、どこどこまでいっても煩悩具足の凡夫である私には感じられないことです。
私の問題になったときには、「流転輪廻の苦しみから抜けたい」ではなく、「弥陀の浄土に生まれたい」が根本的な動機となります。「弥陀の浄土に生まれたいから、流転輪廻を出なければならない」「弥陀の浄土に生まれたいから、南無阿弥陀仏を受け取りたい」という心です。

この「弥陀の浄土に生まれたい」心が、「菩提心」であり、菩提心の起こされた人を「宿善開発の機」と御文章に言われています。

苦しみとは、私自身ではありません。私自身のことを、煩悩具足の凡夫といわれますので、苦しみ=煩悩ではありません。苦しみの元は自力の迷情なのです。

この娑婆生死の五蘊所成の肉身未だやぶれずといえども、生死流転の本源をつなぐ自力の迷情、共発金剛心の一念にやぶれて、知識伝持の仏語に帰属するをこそ「自力を捨てて他力に帰する」とも名け、また「即得往生」ともならいはんべれ。(改邪鈔)

この生死を繰り返す肉体が無くならなくても、生死流転の元である自力の迷情が、弥陀をたのむ一念に破れて、善知識の説く仏語の通りになるから「自力を捨てて他力に帰する」ともいい、「即得往生」ともいわれるのだと、覚如上人が言われています。

Kさんのいわれるように、突き詰めていけば、苦しみ=自分となります。しかし、我が身を捨てることは、当初の動機からいっても全く矛盾することです。自分の苦しみを解決するために、自分がいなくならなければならないならば、それは苦しみから離れたことにはなりません。生死は輪転し、離れることはできません。

還来生死輪転家(正信偈)

とあるように、家から離れないように生死輪転の家にまた還ってきます。

弥陀の浄土に生まれられないのは、私が「悪い」からではなく、「自力を捨てて他力に帰する」身になっていないからです。

阿弥陀仏の願力は無窮ですから、必ず弥陀の浄土に生まれることが出来ます。
ただ今阿弥陀仏に救われます。