安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

煩悩は浄土へ往って仏のさとりを開いて無くなるもの(質問さんのコメント)

質問さんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

●ご質問頂いた件につきまして、ご返答差し上げます。

質問さんのコメントをまとめると「獲信したあとは、煩悩がだんだんと減る」ということだと私は理解しております。

はい、その理解で結構です。



「獲信したあと煩悩がだんだん減るか減らないか」ということは、質問さんが、真実信心を求める上で非常に大事な事だとお考えでしょうか?

はい。
非常に大事なことであり、煩悩と関係なければ仏教から外れると思ってます。
先回挙げたとおり、お聖教の至る所に、「他力によって煩悩は滅する」とありますので。
煩悩が一瞬にすべて無くなる、とは思ってませんので、誤解無いようお願いします。

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090612/1244818189#c1244963498

これについて親鸞聖人は、浄土に生まれて仏のさとりを開いてはじめて、欲や怒りの煩悩はなくなるといわれています。

無上上は真解脱 真解脱は如来なり
真解脱にいたりてぞ 無愛無疑とはあらわるる(浄土和讃)

真解脱とは仏のさとりのことですが、仏のさとりは、阿弥陀仏に救われ弥陀の浄土に生まれてひらきます。
「無愛」とは、「貪愛」のことですから欲のこころ、欲の心がない。
「無疑」とは、疑情ではなく、浄土に往って仏のさとりをひらいて無くなるものですから、「貪欲、瞋恚、愚痴、疑、慢、悪見」の六大煩悩の中の「疑」であり、疑煩悩のことです。本願を疑う心(疑情・仏智疑惑)ではありません。
平生に阿弥陀仏に救われても、煩悩そのものはなくなりませんが、浄土に往って仏のさとりをひらいてなくなるのだといわれています。

そこで質問さんが、前回あげられた御文のなかから、教行信証のお言葉について解説します。

・行巻より
『念仏三昧を行ずれば、一切の煩悩、一切の諸障、ことごとくみな断滅す』(道綽禅師)

『諸余の三昧は三昧ならざるにはあらず。なにをもつてのゆゑに、
あるいは三昧あり、ただよく貪を除いて瞋・痴を除くことあたはず。
あるいは三昧あり、ただよく瞋を除いて痴・貪を除くことあたはず。
あるいは三昧あり、ただよく痴を除いて瞋を除くことあたはず。
あるいは三昧あり、ただよく現在の障を除いて過去・未来の一切諸障を除くことあたはず。
もしよくつねに念仏三昧を修すれば、現在・過去・未来の一切諸障を問ふことなくみな除くなり』(龍樹菩薩・摩訶衍を引用して)

『煩悩の氷解けて功徳の水と成る』(源信僧都、一乗海の「海」について)
『よく一切煩悩の病を破する』(親鸞聖人、一乗について)
『よく一切煩悩の垢を滌ぐ(そそぐ、つくす)』(親鸞聖人、一乗について)
(質問さんのコメントより)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090611/1244720176#c1244770699

行巻のお言葉についてはすべて、親鸞聖人が教行信証行巻の冒頭に書かれています。

この行は、すなはちもろもろの善法を摂し、もろもろの徳本を具せり。極速円満す、真如一実の功徳宝海なり。ゆえに大行と名づく。(教行信証行巻)

南無阿弥陀仏は、もろもろの善法をおさめ、もろもろの徳本を備えている。極促円満し、真如一実の功徳の宝の海である。だから大行といわれる。行巻はすべて、名号の功徳、名号の働きについていわれたものです。

行巻は、南無阿弥陀仏について書かれた巻です。煩悩をなくすという表現は、名号の功徳についていわれたものです。
私に実際働くときはどういうことかといえば、「煩悩は消えないが、浄土へ往けるから消滅したといっても同じ事」という意味です。

御文章にある「三世の業障一時に罪消えて」といわれる部分と同じです。御一代記聞書に解説されている部分を紹介します。

順誓申しあげられ候ふ。一念発起のところにて、罪みな消滅して正定聚不退の位に定まると、『御文』にあそばされたり。しかるに罪はいのちのあるあひだ、罪もあるべしと仰せ候ふ。『御文』と別にきこえまうし候ふやと、申しあげ候ふとき、仰せに、一念のところにて罪みな消えてとあるは、一念の信力にて往生定まるときは、罪はさはりともならず、去れば無き分なり、命の娑婆にあらんかぎりは、罪は尽きざるなり。順誓は、はや悟りて罪はなきかや、聖教には「一念のところにて罪消えて」とあるなりと仰せられ候ふ。罪のあるなしの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし。罪消えて御たすけあらんとも、罪消えずして御たすけあるべしとも、弥陀の御はからひなり、われとしてはからふべからず、ただ信心肝要なりと、くれぐれ仰せられ候ふなり。(御一代記聞書)

(意訳)
順誓が蓮如上人にお尋ねしました。
「阿弥陀仏に救われた一念に、罪がみな消滅して正定聚に定まると、御文章に書かれてあります。しかし、罪は命があるあいだあるともいわれます。御文章と違うことを言われているように思います」
それに対して蓮如上人が答えられました。
「弥陀に救われた一念に罪がみな消えるというのは、一念の信心の力(名号の力)で往生定まるときは、罪(煩悩)はさわりともならないから、無いのと同じである。この肉体の命があるいあだは、罪(煩悩)はなくなることがない。順誓はもう仏のさとりをひらいてしまって、罪(煩悩)はなくなってしまったのか?お聖教には「信心獲得する一念に罪消えて」とあるだろう」
罪(煩悩)があるか、無いかの沙汰をするよりは、信心を取るか取らないかの沙汰を何度もしなさい。罪(煩悩)がなくなって助けられるとも、罪(煩悩)が消えずに助けられるとも、阿弥陀仏のお計らいである。私が、計らって心配することではない。ただ、信心獲得し、南無阿弥陀仏を賜ることが肝要なのだと、繰り返し教えられました。

罪(煩悩)を消す力が、南無阿弥陀仏にあるといわれているのは、往生極楽するときには障りにならないから、無いのと同じという意味であると蓮如上人はいわれています。質問さんが、引用された行巻のお言葉も同じ意味です。

また、信巻について引用されている部分については

・信巻より
『仏法不思議の力、あに種種の益なからんや。
 随ひて一門を出づるは、すなはち一煩悩の門を出づるなり。
 随ひて一門に入るは、すなはち一解脱智慧の門に入るなり。』(善導大師)

『信はよく永く煩悩の本を滅す』(華厳経)
『仏の得たまふところの功徳を見たてまつり、衆生の煩悩悪心を破壊せしむ』(涅槃経・阿闍世王の廻心)(質問さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090611/1244720176#c1244770699

信巻ですから、信心について親鸞聖人が解説されたものです。
「煩悩」といわれている、真実信心でなくなる煩悩は、仏智疑惑心であって、最初に紹介されたご和讃の通りです。貪欲瞋恚愚痴疑慢悪見の六大煩悩がなくなるのではありません。

また六大煩悩と読んだとしても、それは蓮如上人が解説された部分と同じです。煩悩にとらわれ流転輪廻から離れられない身から、煩悩もさわりとならずに往生浄土できる身になるのですから、無くなったといっても同じ事です。

質問さん自身は、信心獲得したいと思われますか?思われませんか?

仏教は成仏するための教えですから、獲信で仏道に立つことができ、他力の導きにより信心が進展していくものとと思ってます。
仏教で教えられるとおり、信は不可欠であると思いますし、成仏への通過点と感じています。(質問さんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090612/1244818189#c1244963498

確かに信心獲得したその時に成仏するわけではありません。しかし、信心獲得した後、煩悩がだんだん減って成仏するという教えではありません。

煩悩が信後減るかどうかが、ハッキリしなければ、質問さんは真実信心を求める気持ちが起きないと言うことでしょうか?

そうではありません。
煩悩は仏教で課題であり、どう捉え、信心相続して仏道進展・成仏へと至るのかは重要な点だと思っています。(上述のとおり)(質問さんのコメント)

これについては、いわれれる通りです。

●以下、少しコメントさせて下さい。

質問さんの言葉でいえば「酒=毒」ではないでしょうか?

であれば、酒の酔いがさめるにつれ体に回った毒も減りますから、毒=煩悩は減る、ということになりますが・・・

素直に考えて、薬には解毒作用があるものだから、弥陀の誓(薬)は煩悩を解毒するはたらきがある、と理解していいのではないですか?
「薬あり、毒をこのめ・・・あるべくも候らわず・・・」という親鸞聖人の言葉でも、「薬、毒」の関係で「弥陀の誓、煩悩」の関係にたとえてありますが。(質問さんのコメント)

これについて、訂正します。詳しく書きますと
「無明」は、仏智疑惑の心です。三毒とは違います。ただ「酒」とだけかくと、毒(罪)と同じになり表現としてわかりにくいものです。
「無明の酔い」=「三毒」とはなりませんが、自覚上、仏智疑惑も、三毒の煩悩も信前は区別が立たないので、同じもののように感じます。

煩悩そのものは減りませんが、三業にあらわれるものは信前信後で変わって見える人もあると思います。
頻繁に懴悔と法悦を常に口にされるような方をみれば、「煩悩が減ったのでは」と思われるかも知れません。しかし、煩悩はまったくかわりません。

「凡夫」というは無明・煩悩われらが身にみちみちて、欲もおおく、瞋り腹だち、そねみねたむ心多く間なくして、臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず。(一念多念証文)

この凡夫とは、救われる前も後も凡夫は凡夫です。阿弥陀仏に救われた人も、上記のように煩悩そのものは「臨終の一念に至るまで止まらず消えず絶えず」です。
親鸞聖人が、「薬あり、毒をこのめ………あるべくも候らわず」といわれているのは、凡夫のまま変わらないからこそ、信心獲得した人に生活上、三毒を戒められているお言葉です。放逸無慚であってはならないといわれるのも、煩悩そのものは何も変わらないからです。

長文になり申し訳ございませんが、阿弥陀仏に救われるという点で、浄土に往生するという点でも煩悩がなくなるか、無くならないかは問題になりません。

罪の有る無しの沙汰をせんよりは、信心を取りたるか取らざるかの沙汰をいくたびもいくたびもよし(御一代記聞書)

のお言葉どおりです。
凡夫往生が阿弥陀仏に救いです。ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。