安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

後生の一大事を知るとはどういうことか?(名無しさんのコメント)

名無しさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

後生の一大事を知るとは、我が身は無常のものだと知るということでしょうか?

また、かつて、必堕無間の一大事とも聞いたことがありますが、こういうことを知るのは、後生の一大事を知ることと無関係と思えばよいのでしょうか?(名無しさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090423/1240476242#c1240483817

回答します。
結論から言いますと、「後生の一大事を知る」とは、「仏法を聞いたことも無い人が仏法を聞き求めるようになる」という意味では、我が身も含めて、すべてのものは無常であると知ると言うことです。

「無間地獄に堕ちることを知る」ことと「後生の一大事を知る」という言葉はどういう関係があるのかという点については、「後生の一大事を知る」の意味が変わってきます。
どう変わるかというと、仏法を聞き求めている人からすると「ただ今弥陀に救われないこと」が「後生の一大事」となってきますので、別の意味での「後生の一大事を知る」ことになります。

「無間地獄に堕ちる」というのは、御文章に出てくる言葉ですが、どのように蓮如上人が書かれているかといいますと

この信心を獲得せずば、極楽には往生せずして、無間地獄に堕在すべきものなり。(御文章2帖目2通)

この信心を獲得し、阿弥陀仏にただ今救われることがなかったら、極楽に往生出来ないし、無間地獄に堕ちるといわれています。
これを後生の一大事を知るという場合は、「この信心を獲得せず」ということであり、「極楽には往生せず」ということなのです。「無間地獄に堕在すべきもの」だけという意味ではありません。
蓮如上人は御文章に「一大事の後生」「一大事」と言われるときは、「信心獲得しないこと」を言われている部分がほとんどです。

この他力の信心ということを詳しく知らずは、今度の一大事の往生極楽は、真に以てかなうべからずと、経・釈ともに明かに見えたり。(御文章2帖目10通・夫れ当流聖人・仏心凡心)

他力の信心を獲得しなければ、この度の一大事である往生極楽は出来ないと、経釈ともに明らかに教えられていると言われています。

ですから、必堕無間の一大事というよりは、「信心獲得出来ない一大事」、「往生極楽出来ない一大事」と言う方が適切だと思います。

なぜ必堕無間というより、信心獲得できないという方が適切かといいますと、「地獄へ堕ちるぞ」と言われると、どうしても聞いた方は、「地獄へ堕ちたくない」ために仏法を求めるようになります。あくまでも私たちを助ける力があるのは、阿弥陀仏の本願であって、私が「地獄へ堕ちたくないと思った」からではありません。
どれほど地獄を思う浮かべ、堕ちたくないと願ったとしても、阿弥陀仏の本願に心が向いていなければ、その努力も方角違いと言わざるをえません。

「地獄へ堕ちるな」とは、「後生の一大事」と御文章に書かれた蓮如上人はいわれていません。
「信心決定あれかし」と常に言われているのが蓮如上人であり、親鸞聖人です。

だからこそ「後生こそ一大事なり」と思ってどうせよと言われているかというとこのように言われています。

『人間は五十年・百年のうちの楽なり、後生こそ一大事なり』と思いて、もろもろの雑行をこのむ心を捨て、或はまた、物の忌わしく思う心をも捨て、一心一向に弥陀をたのみたてまつりて(御文章1帖目10通・吉崎)

人間は50年、100年の楽しみである、後生こそが一大事だと思って、もろもろの雑行を捨てて、一心に弥陀をたのみ救われなさいと言われています。

「後生こそ一大事」とは、「信心獲得しなかったら一大事」ということを思って、もろもろの雑行を捨てなさい、ただ今阿弥陀仏に救われなさいと言われているところです。

「必堕無間の一大事と知る」のではなく、「信心獲得しなかったら一大事」と知り、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。