安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「後生の一大事がわかりません。どうしたら分かるのでしょうか?」(頂いた質問)

後生の一大事がわかりません。どうしたら分かるのでしょうか?(頂いた質問)

お尋ねの文面から推測すると、質問された方は「後生の一大事」の言葉を聞いたこともあり意味も知っておられるのだと思います。
確認のため後生の一大事の意味は、浄土真宗辞典にはこのように載っています。

ごしょうのいちだいじ 後生の一大事
後生とは後に来るべき生涯、一大事とは最も重要なことの意。転迷開悟のことで、生死の問題を解決して後生に浄土に往生するという人生における最重要事をいう。『御文章』5畳16通には「だれの人もはやく後生の一大事を心にかけて、阿弥陀仏をふかくたのみまゐらせて」(註1204)等とある。

浄土真宗辞典

浄土真宗辞典

言葉の意味から言えば、「後生の一大事」は死後に浄土に往生することです。そのことは、死後のことですから本来知ることが出来ないことです。しかし、蓮如上人は「だれの人もはやく後生の一大事を心にかけて」といわれています。これは白骨の章のお言葉ですから、その前後の意味から言えば、「死後の世界を知れ」といわれたのではありません。「朝には紅顔ありて、夕には白骨となれる身なり 」のただ今の現実を通して、「ただ白骨のみぞのこれり」の人生ではなく、「生死の問題を解決して後生に浄土に往生する」ための人生だと知りなさいといわれたものです。


こういうと、質問された方は「それは知っている」といわれると思います。では、「知っているけど分からない」とはどんな状態をいうのでしょうか?

辞書(大辞林)から質問された方の考えをば、「知る」は 「それについての知識を有する。わきまえる」となります。また「分かる」は「 はっきりしなかった物事が明らかになる。知れる」を指しておられるのだと思います。

そうなると質問された方は「後生の一大事」を「知識として知っているが、はっきりとしない」といわれている事になります。そして、質問の答えは、この「後生の一大事」を質問者がどういう意味で使っているのかによって変わります。

1 後生の一大事=死後に浄土に往生すること、の場合

浄土真宗辞典にあるような「死後に浄土に往生すること」とするならば、質問の答えは「死ぬまで、または救われるまで分かりません」となります。そうなると、「ただ今阿弥陀仏に救われて下さい」というよりほかはありません。

2 後生の一大事=自分は今にも死んで行かねばならないものである、の場合

この場合、本当の意味でそれを「分かる」のは凡夫にとっては本当に死ぬ時です。癌の宣告をされたからといって「今死ぬ」と全ての人が「分かる」のではありません。仮に死刑宣告を受けたとしても、死刑囚が「今死ぬ」ことを受け入れる訳ではありません。阿弥陀仏に救われたとしても、「今は死なないだろう」と思う心がなくなる訳ではありません。
この意味では質問された方に対する答えは、「分かることはないから、ただ今阿弥陀仏に救われて下さい」となります。なぜなら、質問された方は、すでに「自分は今にも死んで行かねばならないもの」と知って、その解決を求めておられるからです。そんな貴方はすでに蓮如上人が「だれの人もはやく後生の一大事を心にかけて」といわれた「後生の一大事を心にかけ」た人です。このように質問される方は、どこかて聴聞されたり、念仏されたり、勤行されたり、善業に励んでおられることと思います。それらの努力が「後生の一大事が分かる」ためなら間違いです。なぜなら貴方は、もうすでに「 後生の一大事を心にかけて」浄土往生を求めておられるからです。あとは、阿弥陀仏にただ今救われるだけです。


3 後生の一大事=死後地獄に堕ちること、の場合

この場合も、本当の意味でそれを「分かる」のは凡夫にとっては本当に死ぬ時です。どれだけ自己の罪悪を見つめようとも凡夫にはなかなか出来ないことです。また、それを「分かる」人だけ助けるという南無阿弥陀仏ではありません。貴方が何を自覚しようがしまいが、常にただ今助けると喚びかけられているのですから、それを聞くだけです。ただ今救われるだけです。

結論 獲信に必勝法はありません

このような質問をされる方は、「後生に驚きが立った」妙好人の話を読まれたのだと思います。確かに妙好人の言行録には「今日死ぬかも知れない」の思いに駆られて必死に聞法された方もあります。しかし、全員がそうならないと救われないという話ではありません。なぜなら、受験にはある程度の必勝法はありますが、阿弥陀仏の救いには必勝法はないからです。
例えば、親が子供を育てるようなものです。子育てには必勝法はありません。なぜなら、試験はみんなが受ける試験問題は共通ですが、子供は一人一人違うからです。


一例をあげると、子供は歩き始める時期も、言葉を発するのも、オネショが治るのも一人一人違います。育児書に○才、○カ月でそうなるとかあっても皆そうなるとは限りません。一般に子供は、早くて9カ月遅くて18カ月で歩き出すそうです。となりの子供が9カ月で歩き出し、自分の子供が15カ月立っても歩き出さないからといって気にする必要はありません。そんな子供を無理やり歩かせようとしても詮無いことです。歩けない子供は歩けません。なぜならみんな違うからです。同じように、阿弥陀仏を親とすれば、子供にあたる私たちは一人一人違います。そうすると、ある子供が「いま自分が死ぬ」と思ったとしても、ほかの子供にそれを要求することはありません。


ただ今救われて下さいのほかにはありません。必勝法を探すより、ただ今救われて下さい。