安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「善をしなければ信仰は進みません」という言い方について(悲しい気持ちさんのコメント)

悲しい気持ちさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。

某会長が、おそらく講師対象の講義で、善をしなければ信仰は進みませんよ、とは教えても、善をしなければ助かりませんよと教えたことは一度もありません、と教えたそうです。
こう言われると、間違っていないように感じてしまいます。今は特にお忙しい時期で申し訳ありませんが、教えて頂けないでしょうか?
(悲しい気持ちさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090420/1240178380#c1240242644

ここで聞くことではないのかも知れませんが、「信仰」とはどんな意味で言われているのでしょうか。
(orimaさんのコメント)

複数の方よりコメントを頂き有り難うございました。
回答します。
「善をしなければ助かりませんよ」は、「善をしたら助かる」ということになりますので、間違いということになります。ですから「教えたことは一度もない」というのは、教えたことがあったらそれは浄土真宗とはいいません。


一方「善をしなければ信仰は進みませんよ」については、「信仰」という言葉の定義がはっきりしないところが問題です。
「親鸞聖人の信仰」といったような使い方の場合は、「親鸞聖人の信仰=親鸞聖人の(真実)信心」となります。その意味では、「信仰は進みません」といった場合にはあわなくなります。
似たような言葉を並べて、前者は意味が曖昧、後者は意味が通ることを重ねていうと、前者の意味の曖昧さが、後者にひきずられて正しいかのように錯覚してしまいます。


似たような言い回しで、私たちの日頃見聞きするような、事例で言うと、
「塾に通わないと成績はあがりませんよとはいっても、塾に行かないと合格できませんよといったことは一度もない」
といったところでしょうか。もちろん、この場合は学力と合格にはある程度、因果関係がありますので、真実信心とはあわないことはご了承下さい。
そこで、上記のように「塾に通わないと〜」というような人はどんな人かを考えてみればわかることだと思います。「塾に入る人が増えることが一番の目的」の人です。「塾に通わせたい人」が、いう言い方が「塾に通わないと成績はあがりませんよ」なのです。
目的が「成績があがる」よりも「塾に人が入る」ことになっています。

同様に「善をしないと信仰は進みません」という言い方は、「信仰が進む(意味は曖昧)」よりも「善をする」ことに主眼が置かれる言い方になります。


確かに、親鸞聖人の比叡の山でのご修行や六角堂での百日の祈願などを聞くと、真実信心と、修行や祈願が因果関係があるかのようにどこかで思う人があるのはわかります。しかし、歴代の善知識方が信前に修行や勉学に励まれたということと、真実信心を獲得されたこととは、因果関係はありません。後世まで名の残るような真実信心を獲得されたと言われる人を対象とするなら、相関関係はありますが、因果関係はないのです。

相関関係とは、「朝食を取る子供は成績が良い」というような言い方で、「朝食を食べる」という行為と、「成績が良い」という間には因果関係はありません。あくまでも成績が良いというのは、本人の能力や、努力、環境によるもので朝食を食べたからではありません。成績がよい子のグループには、朝食を取っている子供が多いという確率的に似ているものがあるというだけで、因果関係とは別物なのです。


「善をしなければ信仰は進まない」という言い方は、親鸞聖人や法然上人のような方が信前に大変な学問や修業をされたことと、真実信心を獲られたということの相関関係を、因果関係があるかのよう思わせる言い方なのです。ただし、因果関係はありませんから「善をしたら助かるとは一度もいっていない」わざわざ言うと言うことは、聞いた相手が因果関係と誤解するという前提での話です。

また、親鸞聖人は私たちがする善根と真実信心には因果関係がないと言われているお言葉の1つを紹介します。

一切凡小一切時の中に、貪愛の心常に能く善心を汚し、瞋憎の心常に能く法財を焼く。急作・急修して頭燃を灸うが如くすれども、衆て「雑毒・雑修の善」と 名け、また「虚仮・諂偽の行」と名く。「真実の業」と名けざるなり。この虚仮・雑毒の善を以て、無量光明土に生ぜんと欲す、これ必ず不可なり。(教行信証 信巻)

私たちすべての人のする善は、「雑毒・雑修の善」といわれ「虚仮・諂偽の行」と名付けられる。浄土往生出来るような業とは名付けられていない。この虚仮雑毒の善をすることで、阿弥陀仏の極楽浄土に生まれようと思っても、絶対出来ないことなのだと言われています。


もちろん悪に誇ってよいとか、善をしなくてよいと言っているのではありません。

「善の勧め」は要らないと言うものがいるなどと受け取られるのは悲しすぎます。
(Kさんのコメント)

http://d.hatena.ne.jp/yamamoya/20090420/1240178380#c1240325900

Kさんが言われる意見と同意です。仏教の教えから、善をするのは当然のこととして、浄土真宗で教えられた真実信心と結びつけるようにいうのは間違いだといっているのです。


阿弥陀仏の救いは、現在ただ今のことで、進んでいったその先にあるのではありません。
ただ今阿弥陀仏に救われて下さい。