安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「果たして後生の一大事を解決した場合、本当に心から納得して最期を迎えることができるようになりますか?(みそみそさんのコメントより)

anjinmondou.hatenablog.jp
こちらの記事のコメント欄に、みそみそさんよりコメントを頂きました。

(略)
そこで果たして後生の一大事を解決した場合、本当に心から納得して最期を迎えることができるようになりますか?

そもそも、たとえ後生の一大事を解決出来なかったとして、その分これ以上ないくらい充実した幸せな人生を送った場合、今際の際に感じることは何ですか?
(みそみそさんのコメントより抜粋)

https://anjinmondou.hatenablog.jp/entry/2021/05/08/164645

結論からいいますと、人生の終わりを迎える時の現在をどう見ているかの違いによって変わってきます。

後生の一大事を解決した、浄土往生が定まったという点においては、この人生において「後生の一大事を解決しないまま臨終を迎えてしまった。どうしよう。」という気持ちは起きません。その一方で、人間として生きていろいろな関わりの中で生きている以上、それらに対する執着はあるのでそれについてあれこれ思うことはあります。


仕事を持っている人ならば、自分の抱えている仕事が途中のまま回りに迷惑をかけていまうとか、家族に心配な人がいる人ならば、あの子供(または親、配偶者)は大丈夫だろうかなど、その人のおかれた状況での気掛かりなこと、心配なことはいろいろとあると思います。その点だけをいえば、やり残したことや、心残りなことは死ぬ時にはいろいろとあります。孤独死する場合でも、自分の遺体を片づけるのに他人に迷惑をかけるだろうと考えます。


しかし「この私」という一個人として人生の終わりを迎える時には、「むなしい」ということにはなりません。

(13)
本願力にあひぬれば
 むなしくすぐるひとぞなき
 功徳の宝海みちみちて
 煩悩の濁水へだてなし(高僧和讃 浄土真宗聖典 (註釈版) 第ニ版P580)

「むなしくすぐる」というのは、何も残るものも持っていけるものもないことを指していわれています。

御文章で蓮如上人はこう書かれています。

まことに死せんときは、かねてたのみおきつる妻子も財宝も、わが身にはひとつもあひそふことあるべからず。されば死出の山路のすゑ、三塗の大河をばただひとりこそゆきなんずれ。(御文章1帖11通・電光朝露・死出の山路・浄土真宗聖典註釈版P1100)

死んでいく時に、残していくものに着目すれば「本当に心から納得して最期を迎えること」はありません。

そこで、上記の御文章には続いて

これによりて、ただふかくねがふべきは後生なり、またたのむべきは弥陀如来なり。信心決定してまゐるべきは安養の浄土なりとおもふべきなり。(同上)

と書かれています。

「信心決定して参るべきは安養の浄土」となると、「むなしくすぐる」ことはありません。南無阿弥陀仏とともに、南無阿弥陀仏となって浄土に往生させていただけるということです。私から離れない、摂取不捨と私を捨てられないのが南無阿弥陀仏です。

「わが身にはひとつもあいそふことあるべからず」と「むなしく」死んでいくだけならば、納得して最期を迎えることはないでしょう。ただ、南無阿弥陀仏だけは私から離れて下されないというのは、私の納得とは関係なく、有り難いことです。

そもそも、たとえ後生の一大事を解決出来なかったとして、その分これ以上ないくらい充実した幸せな人生を送った場合、今際の際に感じることは何ですか?

行く末が分かりませんし、過去を振り返ればおいていくものばかりです。
そこで、過去を振り返りながら「これでよかったんだ」と思い込もうとする人もあるでしょう。しかし、「これでよかった」と自分で思うことと、その人の後生は関係がありません。

ただ今助けるという南無阿弥陀仏に救われて、浄土往生する身になって下さい。