安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

「種々の罪悪を考えると、後生は地獄に間違いないと思いますが、私自身は地獄に堕ちないという信心があり全く崩れません。それでいいのでしょうか?」(頂いた質問)

「種々の罪悪を考えると、後生は地獄に間違いないと思いますが、私自身は地獄に堕ちないという信心があり全く崩れません。それでいいのでしょうか?」(頂いた質問)

ご自身が地獄に堕ちるか堕ちないかということを、自分の心で決めているのであれば、「自分は地獄へ堕ちない」とどれだけかたく信じていてもそれは後生とは関係がありません。

往生ほどの一大事、凡夫のはからふべきことにあらず、ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし。
(略)
さればわれとして浄土へまゐるべしとも、また地獄へゆくべしとも、定むべからず。(執持鈔)

と執持鈔にあります。

後生のことは、ただ阿弥陀如来にまかせるだけであって、自分の方から「私は浄土へ参れるだろう」「地獄へ堕ちるだろう」と決めることではありません。

ご自身の心の上では本来は「地獄へ堕ちると思う」のが普通であって、そう思えなくなったことに対する不審からではないかと思います。ここで大事なことは、自分の心がどうであるかということに拘り、その心の善し悪しで一喜一憂することはよいことではありません。


例えば九州行きの新幹線に乗った人は、「自分が九州に行けると思えるかどうか」を問題にしません。なぜなら、乗った人がどう思ったところで、九州に行けるかどうかは新幹線の力によるからです。もっと身近なことで言えば、最近は携帯電話にも入っている電卓ですが、それで 三桁のかけ算と割り算を実施してその結果が合っていると「思えるかどうか」を問題にする人はありません。なぜなら、その結果が「合っていると思えるかどうか」は、計算結果に関係がないからです。計算の結果は、計算機の力によるものであって、私の「思い」とは関係がありません。


後生のことは、阿弥陀仏にまかせるだけであって、その上で私がどう思ったところで結果が変わるわけではありません。「ひとすぢに如来にまかせたてまつるべし」です。自分の心が定まってから阿弥陀仏にまかせるのではなく、ただ阿弥陀仏の仰せのとおりに弥陀にまかせて下さい。