安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

どうすれば聞法心が起きるか?よりもどうすればただ今弥陀に救われるかが問題(maryさんのコメント)

maryさんよりコメントを頂きました。有り難うございました。
コメントを頂く前に文章はある程度つくっていましたので、エントリーとして掲載をします。

『「どうすれば方便を進めるか」という疑問はかえって遠回りになる』と言われる疑問とは、具体的にはどのような疑問(言葉)でしょうか?例をあげていただきたいのですが・・。

回答をいたします。
「どうすれば方便を進めるかという疑問」=「どうすればただ今弥陀に救われるのかという疑問」ではないということを理解頂きたいと思います。

「どうすればただ今弥陀に救われるのか」ということを考え、悩むのが求道です。
「どうすれば方便を進めるか」ということを考え、悩むのは求道とはいいません。
なぜなら道を進むこと自体が目的では無いからです。阿弥陀仏の本願を聞く目的は、道を進むことでしょうか?求道することでしょうか?そうではなく、阿弥陀仏に救われる為です。

「どうすれば方便をすすめるか」というのは、言葉を換えれば「どうすれば聞法心が起きるのか」とか「どうすれば自力が問題になるのか」とか「どうすれば実機が知らされるのか」などなど、「どうすればただ今弥陀に救われるのか」という以外のことをあれこれ考えることを言います。

あわれあわれ存命のうちに皆々信心決定あれかしと、朝夕思いはんべり(御文章4帖目)

蓮如上人も、信心決定あれかしと常に言い続けておられます。
自力が問題になるようになれ、ではなく、「自力を捨てよ」と常に教えておられます。

そういう意味で、ただ今の弥陀の救いをあえていったん自分から遠ざけて、その手前を目指そうというのは、かっかとして遠回りになるということを言いたくて書きました。