安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

自力を捨てて、弥陀たのむとは「阿弥陀仏に救われる」こと(メールでの質問)

メールで質問を頂きました。有り難うございました。

阿弥陀仏に助けて頂くには、自力を捨てなければならないと思っていましたが、阿弥陀仏のお力で自力が廃るとも聞かせて頂いています。
(メールでの質問)

阿弥陀仏に救われるにはどうしたらよいのか?という質問について、蓮如上人は

もろもろの雑行を投げ捨てて、一心に弥陀に帰命すれば、不可思議の願力として仏の方より往生は治定せしめたもう(御文章5帖目・聖人一流の章)

といわれているように、「もろもろの雑行(自力)」を投げ捨てて弥陀に救われるといわれています。

そこで、この自力の心は、自分で捨てるのか?阿弥陀仏によって捨てさせられるものなのか?という疑問が起きるのは当然のことと思います。
「自分で自力を捨てる」と書けば、「自力で自力が捨てられる」となるので、「『自力で自力を捨てる』のも自力」となり際限が無くなってしまいます。

言葉で書けば、「阿弥陀仏によって自力を捨てさせられる」のですが、それならなぜ「自力を捨てて、弥陀をたのめ」と、できないこと(救われない・自分で自力を捨てて)と、弥陀を頼め(救われる)と、反対のように思えることを書かれているのかということになります。

言葉で書けば、前後がありますが
「もろもろの雑行を投げ捨てて」も「不可思議の願力として(阿弥陀仏のお力で)仏の方より往生は治定(自力が廃って浄土往生ができる)」も同じ事を言われているのです。

自力を捨てるのは、結果から言えば阿弥陀仏のお力によってです。
ただ、自力が阿弥陀仏の救いを邪魔をしているには違いありませんから、「捨てよ」といわれているのです。「自力を捨てよ」とは、「弥陀に救われよ」と同義語です。

「捨てて」から「助かる」のではありません。
「捨てたら」助かるのでもありません。
「捨てる」のも「助かる」のも同時のことですから、同じ事をあらわしています。


ただ今弥陀に救われるのですから、「自力を捨ててから」助かるのではありません。
ただ今弥陀に救われて下さい。

追記として、いろいろと質問を下さる方の中には、「こんなことを聞いていいのだろうか」とか、「自分はレベルがそこまでいってない」と前置きされる方があります。
「レベル」というのものは、信仰においては存在しないものです。「そこまで」といっても、「そこまで」いったのが真実信心でもありません。思ったときに、思ったことを気軽にお尋ね下さい。

何か素晴らしい人が救われるのでもなく、何か尊い人が救われる教えではありません。「悪人正機」と歎異抄に書かれているように、「こんな自分はまだまだ」とか「こんな自分は救われない」と思っている方が阿弥陀仏の本願の正客なのです。
必ず阿弥陀仏に救われる時が、ただ今救われたというときがあります。