安心問答−浄土真宗の信心について−

浄土真宗の信心についての問答

善をしないと阿弥陀仏にただ今救われることはないのですか?という問いを考える(maryさんのコメント)

前回のエントリーの補足として書きます。

(中略)「ご方便の願である19願を『19願の善をしていけば救われるのだ』と自分の救われる為の手段のように思ったり、使ったりするのはおかしい」とはどういうことか、詳しく教えてください。方便とは真実に入れるための手段、方便からしか真実に入れない、と聞いているので、どうしても19願で教えられる諸善をしないと18願に入れないのでは?と思えてくるのです。
(maryさんのコメント)

19願で教えられる諸善をしないと、18願に入れないのでは?という問いは、言葉をかえると「善をしないと阿弥陀仏にただ今救われることはないのですか?」という問いと同じになります。

これに対して、二通りの回答が考えられます。
1つ目は「善をしないと阿弥陀仏にただ今救われることはありません」
2つ目は「善をしなくとも阿弥陀仏にただ今救われることはあります」となります。

しかし、いずれも阿弥陀仏の救いから言えば間違いになります。
1つ目は、善をした結果助かるということになり、これは「諸行往生」といわれ、現在ただ今阿弥陀仏に救われるということはありません。善をしたかしないかが、往生の条件となると、「どれだけ善をしたか」が必ず問題になるからです。また、まだ阿弥陀仏に救われた身になっていない人は、「自分は善が足りないからだ」「もっと善をしなければ救われない」と、善に励むようになると思いますが、それではいつまでたっても、善の積み上げた結果が真実信心とはならないので、終わりがありません。

2つ目は、「善をしなくとも」というと、やはり「善をしたかしないか」が阿弥陀仏の救いと関係があるという回答になるので、これも間違いです。

如来の作願をたずぬれば
苦悩の有情をすてずして
廻向を首としたまいて
大悲心をば成就せり(正像末和讃)

と親鸞聖人はいわれています。
阿弥陀仏が願を作られた御心をよくよく考えてみると、苦しみ悩むすべての人を救うために、阿弥陀仏の方から与えるために真実信心を完成されたと言われています。
阿弥陀仏の方から、与えて下されるのが真実信心というものです。苦悩の有情に対して、「善をしたかしないか」を判定基準として与えるというものではありません。

方便とは真実に近づけさせるためのものですが、その方便とか真実というのは、阿弥陀仏のされることです。阿弥陀仏が真実の願を建てられ、その真実に近づけさせ入れさせるために方便の願を建てられたのですから、親鸞聖人は以下のようにいわれています。

願海に就きて、真有り仮有り。(教行信証真仏土巻)

あくまで方便とか真実は、阿弥陀仏の本願についてのことです。聞く立場としては、「方便をまず通って」というのではなく「真実に早く入ろう」とするままが、方便を進む姿となるのです。
真実信心になるまでは、何をどう思っても真実で無い以上は方便です。「どれが方便か」という論議は、真実信心でない以上は「どれも方便」ですから、考えても答えはでません。
「どうすればただ今救われるか」という疑問に対する回答が「方便」であって、「どうすれば方便を進めるか」という疑問に対する回答は、こういう言葉はありませんが「方便の方便」となってかえって遠回りになる結果となります。